優しいとは何か。

一般的に、何かしてくれたり気が利いてくれたりすることが優しいこととも言えよう。

しかし、余計なお節介と捉える者もいれば、その気の利かせ方が的外れだと嘆く者もいる。

中には、優しさを求めているにも関わらず優しすぎだと言いう者も多く存在する。

そして、優しさが時に人を傷付けたりすると言う考えもある。

しかし、実際それは勝手に傷ついたに過ぎないのだ。

必ずしも優しさというものがどんな人にも受け入れるものではないことが分かる。

なぜ、優しさが受け入れがたいものになるかはただ単純にその人自体に問題がある。

優しくされることを受け入れるのは弱い人間だと感じ、自分の弱さを見せることになると感じる。

又、優しさを受け入れることは、その人に借りを作ることだと感じる。

他に、優しさに損得勘定を交えていると感じる。


優しさとは訳の分からぬものにさえ感じる。

人の『優しさ』に対する考え方は実に曖昧なものになってしまっている。

俺が考える優しさというのは、

『想い』

そのものと考えている。

どんな行いや言葉を発しても、この『想い』在りきなのだと思う。

優しさが伝わるのではない、優しさに乗っかってきたその人の『想い』が伝わるのである。

言葉やそれに伴う行動は想いを伝える手段に過ぎない。

表現方法である手段は大事。しかし、形に惑わされてはならない。

優しさを素直に受け入れられない者は皆自分は動かずして周りにばかり期待する者である。

本当の優しさに触れるのをずっと待っている人間である。

しかし、優しさに触れるには素直にならなければ一生触れることは不可能である。

本当の優しさをを持つ者を待ってるのもいいが、やはり素直でないと結局本当の優しさは感じない。

本当の優しさを知らない者同士の優しさで育ってしまうと優しさを見失うのも当たり前である。

そんな環境が当たり前になり、みな心が満たされない。

純粋で無邪気な子供の優しさに触れてみよう。


その瞬間自分の小ささと馬鹿馬鹿しさを感じることになる。


本当の優しさを感じた者は周りにその優しさをお裾分けしよう。


そして、優しさで一杯にしよう。

その時にきっと感じるはず、優しくした者も優しさで満たされることに。