8月7日。

この日は、被爆経験者の方のお話しを聴く会に参加してきました。


実のところ、予定も立てこんでいたし、

参加をどうしようかと思っていたのです。


そんな私の背中を押してくださったのが、

ポジティブ作戦会議 に参加してくださっていたJunkoさんの一言。


なんの流れでそういう話になったのかは忘れてしまったけれど、


「・・・ほら、それって戦争の体験談とかも同じだと思うのよね。

今、ちゃんときいておかないと、

どんどん事実を知っている人がいなくなってしまって、

もうきけなくなっちゃうでしょう?」


その言葉を聞いて、

あぁ、やっぱり行こう。 と思えたのでした。



そして、家に帰り、子どもたちを呼んで話をしました。


「ねぇ、今度、ママと一緒におでかけしない?」


「どこへ行くの?」


「お話しを聴きに。」


「なんのお話し?」


「うーんとね、戦争のお話し。

あのね、震災の時のお話だったら、

ママはいくらでも君たちにしてあげられるけど、

戦争のお話しは、ママは君たちにしてあげられへんねん。

ママどころか、ママのじぃじだって、戦争が終わった時には、

まだ風くんよりも小さいくらいやったから、

ママもじぃじから、戦争の話とかきいたことないねん。

だって、ばぁばだって生まれていなかったんよ。

そんな昔々のお話しやからね、

もうその時のことを、お話ししてくれる人がいなくなっているねん。

もう、戦争なんてしたくないやろ。

だから、そういう体験をした人のお話しを聞かせていただくのも、

すごい大切やと思うから、

よかったら、ママと一緒にいってくれへん?」


きちんと正座をして向かい合ってお話しすると、

子どもたちはふたりとも行くといってくれました。






福岡県の星野村で今も残る原爆の残り火。
それを私たちは「平和の火」と呼びます。

この日も星野村から届いた「平和の火」を囲み、
星野村の映像をみて、
「約束のどんぐり」の絵本の読み聞かせをみました。

それから、当時少年兵として被爆された方のお話を伺いました。



たくさんの写真(長崎の一本鳥居の写真もありました)と、
被爆者手帳も手にとって見せていただきました。


被爆者と認定されるには、

あのときに、広島にいたことを証明してくれる親族以外の人が、

2人いないといけないらしく、

もちろん、広島はあのような状態ですから、

証人をみつけ、被爆者と認定してもらうことは、

とても大変だったそうです。


また、胎内被爆についても1946年5月31日までに生まれた子どもに限定されるそうで、

うぬぬぬ・・・

この日数でいいのか?と思ったり・・・。

思わずみんなで指を折りつつ数えてしまいました。


たくさんの方が水を求めて死んでいかれたお話。

自分の水筒の水を分けてあげたくても、

上官にとがめられ、あげられなかった話。

翌日、2人組で作業にまわったときには、

上官がいなかったので、少しずつお水を飲ませてあげてまわったら、

水を飲んだ人はみんな死んでしまった話。


どれもこれも、当時10代半ばだった少年が体験した話です。



で、子どもたちはというと、

普段、お昼寝はしないのに、なぜか風は寝てしまい、

花は、お絵描きに夢中になっていました。


でも時々、話の要所要所にふと顔をあげて、

写真をみているさまから、耳だけは傾けてくれていたようです。


風は、最後のほうにようやく起きて、

おじいさんにすごくよく飛ぶ紙飛行機を作ってもらって、

喜んでいました。



会の最後には、「平和の火」を消します。



この日は、花と風が最後に吹き消してくれました。

何度となく分火されては、消えていく「平和の火」。

私には、それが平和を受け継ぐ儀式のようにも思えます。

この火が全国各地で灯され、そしてまた消されるたびに、
亡くなられた方への祈りと、
平和への誓いが繰り返されます。

だからこそ、この火を灯し続けなくてはいけないのです。



家に帰ってから、いつものように

「今日は何が楽しかった?」と子どもたちにきいてみました。


そしたら、返ってきた答えは、

「お話しきいたこと。」


「え~、だって風、寝てたやん。ちゃんと聞いてたん?」


「だって、せんそうのお話しは、ママはしてくれないお話しなんでしょ?」


「え~、マクドナルド行ったのでもないん?図書館にいったのでも、電車乗ったのでもないん?」


「うん。お話しがよかった。」



よくわかりませんが、心には残ったのかな?