空港バスに揺られて一時間弱。
長崎市内につきました。



降り立ったそこは、長崎平和公園の中にある爆心地公園
長崎に投下された原爆の中心地です。



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くらっとするような、暑い夏の一日。
時刻もちょうど11時過ぎ。


原爆が投下された日も、
こんな何でもない夏の一日だったのでしょう。

近くの小学生でしょうか。
たくさんの低学年くらいの子どもたちと一緒になりました。
(夏休みの登校日に原爆の授業?と思っていたら、
長崎では二学期制が導入されているんだとか。なるほど。)

先生の「ほら、このちょうど真上500メートルのところで、原子爆弾が爆発したんや」

(頭の中で長崎弁に変換して下さい)というような説明を聞きつつ、
ちらちらとこちらに視線を向ける子どもたち。


ボクらは授業できてるけど、

この人も遠くからわざわざこれを見にきてるんや~

これってそんなに意味があるん?

(頭の中で長崎弁に変換してください)


といっているように思えたので、


そうやで。

君らにとっては、普段から当たり前にみているところで、

なんで暑い中、わざわざこんなとここなあかんねん。

いっつも夏になったら、何やかやいわれるわ~と思ってるかもしれんけど、

世界中からわざわざここを訪れる人がいるっていうことは、

それだけ、意味があるってことなんやで。

いろんな意味が。

(むっちゃ関西弁バージョンです)


って、心の中でお返事しときました。


PFA(サイコロジカル・ファーストエイド) の学びの中でもでてきたことですが、

子どもに被災地の映像などをみせることは、

トラウマにもつながり控えるべきという意見もあります。

けれど、阪神大震災を経験した神戸では、

保育園でも震災の時の写真を見せながら、

震災の時のことを先生方が話して聞かせてくれたこともありますし、

小学校でも、毎年震災に関する授業があります。


それって、震災と原爆、内容は違えど、

広島や長崎の子どもたちへの教育と同じではないかと。

他の地域の子どもとは意識が違う部分があります。


もちろん、不必要に悲惨な映像を子どもに見せることは賛成できませんし、

一方で、きちんと「知る」ということも大切だと思います。



さて、その後は原爆資料館 へ向かいました。


実は、原爆資料館は2日目、他の皆さんと一緒に訪れる予定だった場所です。

長崎に行くからには、足を運んでみたくて、

香織さんにお伺いのメールをしたんです。


「行き先の中に長崎原爆資料館が含まれていましたが、
どのくらいの滞在時間を予定されていますか?」

って。


そしたら、

「また本当にシンクロなのですが、
昨日色々下見をしてきて、
「当日の原爆資料館、内覧はなしにしよう」と思ったところだったのでした!!☆
というのも、他に気になる場所が急に出て(呼ばれて?)しまって・・・」

というお返事がっえっ

もう、びっくり(笑)


ということで、心おきなく見学させていただくことに。


遺言のことといい、原爆資料館のことといい、

もうほんとにシンクロ多すぎです(笑)


思っていたよりも明るい館内を入口に向かって、

らせん状になっているスロープをおりていっていると・・・

鶴さんを発見しました目



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鶴さんが連なっています。



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ずーっとずーっと連なっています。



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その名も「連鶴」

れんづる・つなぎ鶴とも呼ばれるのだとか。


150メートル、縦15 センチの細長い紙で折られていて、

38メートルもあるのだとか。


ここでも、シンクロ。

(後々、ブログで種明かししますね音譜



展示は、実質30分ぐらいしか時間がなかったので、

駆け足でみてまわりました。

そのおかげで、自分がどういうものにアンテナを立てているかを

目の当たりにすることができました。


私はどうやら人にしか興味がないようです。


建物がどうなったであるとか、

どのくらいの規模で何がどうなったとか、

そういったものは、そういったものに興味を持たれる方がちゃんといるだろうから、

その方にお任せしてしまおうと思います。



私が、向かい合うのは人


それを実感してきました。




展示品の一番最後。

売店の斜め前にその写真はありました。



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「焼き場に立つ少年」


目撃者の目 報道写真家 ジョー・オダネル  から


1999年現在76歳になるジョー・オダネル氏は、アメリカ軍の
報道写真家として第2次世界大戦後の日本を撮った。

佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は
当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。
男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を
赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に
血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、
ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。

夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、
沈黙のまま焼き場を去っていきました。
(インタビュー・上田勢子)

[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]


涙が知らず知らず溢れてきて、

隠れて涙をぬぐいました。



あかん。

子どもにこんなことさしたらあかんねん。

子どもにこんな顔さしたらあかんねん。

下の子、おぶってるのは、まぁええわ。

貧しい中、お手伝いもせなあかん。

だけど、子どもは野原かけまわって遊んでるのが一番や。

ちゃんと学校いって、勉強することが大事や。

子どもに教えるのは、銃の使い方じゃないやろ。

子どもに、こんな・・・

こんな顔さしたらあかんやろ。


恐らく、最後の家族を亡くしたであろうこの少年の、

凛々しいまでの直立不動と、

まっすぐに前を見つめた視線。

すべてを自分ひとりで受けとめんとするその姿に、

もう決してこんな歴史は繰り返してはならないのだと、

改めて深く心に刻みました。