就任以来のでたらめぶりに世界中で反トランプのデモが行われているが、このデモのやり方も淵源をどのあたりに置くかは別として、様変わりしているように見える。

 日本ではデモ含む集会や街頭行進には許可が必要だが、そもそもプラカードを持ったり、政治を揶揄するような仮装をして歩いても、それだけで捕まるとも思えない。その良い例がコミケで、晴海や渋谷の路上に仮装した群衆が何万人も押しかけても、押しかける人数が多すぎて橋が落ちても、それで捕まったという者はいないのだ。

 以前はデモというと、参加すると公安に写真を撮られ、大学生は就職活動に響くなどと言われたものだが、SNSの時代では写真を撮られるのはおまえたち政治家や公安職員の方だ。前者はともかく後者は顔が知られたら、スパイの世界では仕事はもうあるまいなあ。さんざん撮ってバラ撒いてやれ。

 見たところ、何万人、何十万人も参加しても、行動は極めて平和的である。合法性には非常な注意を払っているように見え、一般刑法で問題になるのは私有地公有地の不法占拠くらいで、安田講堂や浅間山荘のような暴力的なものはない。火炎ビンも目にしない。

 そうなると体制側は「言論の自由」という極めて重要でセンシティブな権利を争う方法に悩むことになる。法律(特別刑法)を作ればそれは精査され、イスラエルやハンガリーのような反民主的な国家以外は訴えられ、あからさまなものは違憲判決が出ることになる。体制側にとって得なことは何もない。見た目はコミケと大差ないのだから、新兵器エバンゲリオンのファンとMAGA反対デモの参加者をどうやって区別するのだろう? 「内心の自由」それはアカンな。

 主催する側の問題は、こういった抗議活動をいつどうやって政治的な成果に結びつけるかということだろう。安保法案を巡るデモで、国会前に集った民衆を見た安倍首相は心底恐怖したという。彼が恐怖したのは彼の祖父のように、デモ隊が鉄柵を踏み越えて官邸にいる自分を羽交い締めにすることではおそらくあるまい。そんなものなら自衛隊を派遣すれば済むことだ。

 心底怖いのは、こういった運動に感化され、警察や官僚機構が圧制者にNOを突き付けることである。彼らは安倍首相個人に忠誠を誓っているのではなく、誓っているのは日本国憲法に対してである。違憲の命令に従う義務はなく、そうなってしまった場合、彼の政治は根底から崩れる。良くて政界追放、悪ければ反逆罪で収監である。そういったことに対する恐怖ではなかろうか。

 しかし、それをやるのに一発の銃弾も一瓶の火炎ビンも使ってはいかんのだ。高度な戦略にリードされる必要がある。その点、安保闘争や成田闘争の過激派は稚拙にすぎた。彼らは本当の革命家ではなく、革命家のふりをした社会不適合者にすぎない。そういったものは参考にならない。

 一見した様子では、これがすぐに弾劾による解職や大統領辞任に繋がるとは思わない。そういったことにはたぶんならないだろう。しかし、いくつかのデモを通じて不法な政策を頓挫、あるいは未然に阻止することはたぶんできるだろう。

 ウォール街のデモでも見られた気ままな方式は、我が国ではまず例を見ないものである。マイダン革命のように暴力化した例もあるし、抗議運動の体裁については今だ適切な表現や言葉があるようにも見えない。それに悪用の危険もある。2021年のキャピトル・ヒルの占拠は運動理論が悪用された例だ。

 しかし、21世紀に生きる我々としては、携帯電話やインターネットが知らぬ間に生活必需品になったように、新しい政治のやり方はコモン・センスとして身に着けておく必要があるだろう。直ぐ暴力沙汰に結びつけなくても、僅かな骨折りで政治を変える方法はたぶんある。何もしないよりはずっとマシだ。

 

 プーチンは新しい法律を作り、ウクライナ人は今後50年間ロシア入国禁止という決まりを作った。たぶん、薄々感づいているのだろう。個々のウクライナ人がゲバラやレーニン張りのオルギストとは彼も思わないだろうが、マイダン革命をかつてのベルリンの壁崩壊と重ね、現在も執拗に抵抗するウクライナ軍に不気味さを感じているように、これが何なのかは彼にも説明できないのである。そしてトランプは民主主義の教師としては極めて不適切な人物である。