----兵庫県知事選

 よく分からん選挙である。再選された知事はこれといった個性も理想もない若いだけが取り柄の人物で、彼をヨイショした広告会社の女性も頭空っぽの調子の良いだけの女で、それで東京からやってきて彼らを支援したNHK党の立花はデマと虚言だけが取り柄の騒動屋と来ている。よくもまあ大根役者ばかりこれだけ集めたものだ。

 前にも書いた通り、地方選挙はその土地ごとに事情があり、外野からは判断しがたいものである。判断には情報と慎重さが必要だが、聞くと神戸の人は「立花さんに真実を教えてもらった!」、「私たちは騙されていた!」と本当に言っているのだから、いったい何が起こったのだろうと思わせる。

 が、元々長期政権の後釜候補の勝率はそれほど高くない。前任者のイメージがどうしても染みついており、良い面もあれば悪い面もあり、大方にとっては「もう飽きた」というのが本当であるから、善政を敷いていても分かってもらえることはあまりないのである。善政そのものに飽きているのだから。

 私個人の見方としては、選挙で選ばれる首長はクルマの運転手である。クルマには色々な種類があり、高機能なクルマもあればシンプルなモデルもあるが、大事なことはその機能を理解して、乗客を安全に目的地に運ぶことである。

 ところが、たぶん40年前の大前研一あたりから始まり、ビートたけしの番組で名前を売って国会議員や首長になった政治家たちの言い分は違っているようだ。「改革」というのがそのキーワードであり、彼らの主張をクルマに喩えるなら、ハンドルを取り外してジョイスティックを付けたり、タイヤを外してキャタピラを付けるような提案ばかりである。機能を理解するのではなく、個々の装備につき、大前の場合はごく簡単なビジネス論理で要不要を勝手に決めつけ、全体との調和も考えずにいじり壊すようなものだったが、できるわけないので、この「改革」は実現しないものと相場は決まっている。

 政治学者の罪も重い。福祉国家(行政国家)とは世界大戦後に普及した概念だが、実を言うとこの概念の提案には民主主義に対するある種の諦観が含まれている。民衆は民衆自身で制度を修正できないという諦め、民衆の福利---最大多数の最大幸福を実現するには再配分を基本に厚生機能をビルドインする必要がある。それが福祉国家だというものである。民主主義(多数決原理)とは関係なく鼎立しうるこれは社会主義国の影響を受けたこともあるが、戦前ドイツの顛末がヒトラーと第二次世界大戦だったことを見れば、概念が受け容れられたことには一定の理由もある。

 「よりマシな方を選ぶのが政治」という言葉は、こうした制度の下でこそ意味を持つ。「改革」を連呼する人々に言いたいことは、その前に自分の乗っているクルマがキャデラックなのかスズキ・アルトなのか、まず考えようということである。センチュリーにはショーファーなりの、NBOXなら軽自動車なりのふさわしい使い方がある。一応彼らによれば、日本は中福祉中負担の国らしいから、クルマでいえばカローラくらいだろう。その中でどの機能を使えば乗員乗客を快適に目的地に運べるか、どんなクルマでも運転手次第で良くも悪くもなることは誰もが知っていることだ。しかし、「改革」の議論はこれと次元を異にする。

 福祉国家を上記のように考えるなら、「複雑」な政治状況に対処する方法はごく簡明である。制度を複雑にすれば良いのであり、それは需要と供給によって決せられるため、政治家個人の資質とは関係ないものだと言うことである。

 こういったことを政治学者は全く生徒に教えなかった。私はこの種の分野については世間一般より良い教育を受けた方だと思うけれども、そこでも聞かなかったのだから、世間一般の意識は「より良い運転手」ではなく、サムライが刀で革命した明治維新で、「維新」や「改革」なのだろう。

 確かに160年前の日本はあらゆる点で遅れていたから、産業から法制度、市民社会に至るまでありとあらゆる点を「改革」しなければいけなかったことは確かである。あちこちに喧嘩を売る血の気の多い政府の浪費を賄うために米本位制から金本位制に経済も改めなければいけなかったし、これは世界の平均よりだいぶ早かった。

 しかし、これに匹敵する体制変更の必要が現時点であるかといえば、その必要はないように見える。確かに日本ではおよそ60~70年ごとに大きな政変があるが、アメリカ合衆国は200年以上同じ体制のままだし、現代立憲国家のような緻密に作られた制度というものは、時間が経過したからといって、そうおいそれとモデルチェンジするものではないのである。

 

 現代のアメリカの問題は制度の問題というよりは、行政機構の作動不良である。ITや金融を除き、ほとんどの産業で労働環境の悪化と所得低下を起こしているのに政府は挙手傍観し、さらに言えばこの状況でもGDPの大部を占めるのはイーロン・マスクではなく、これらの人々の生産活動なのだから。

 ここでこと運転手として維新を見ると、その運転ぶりはあまり褒められたものとは言えない。根拠地である大阪の府政は混乱しているし、任命された区長も不適切、行政サービスの質は低下し、失政を糊塗するために大阪万博のような浪費に血道を挙げるしか芸も能もない。いちばんの不思議は、これだけ失政を重ねながら、10年以上も運転手の能力に疑問を持たれないことだろうか。維新という政党はその機構を見ると分かるが、「改革」を言う前に、クルマがどう動くかも理解していないようなのである。

 NHK党の立花はそんな時に現れた。彼が大型トラックはおろか軽自動車さえ運転するには危険人物であることは見れば分かる。ドライバーの一亜種として「危険運転性格」というものがあり、換車の理由が全て事故による破壊という危険性格が認知されているが(交通安全センターに行くと分かる)、立花は運転手ですらなく、単に選挙運動に仮装して選挙制度を破壊しているだけである。それが正義の使者のように言われているのだから、なんともはや。

 神戸の様子があまりにおかしいので、私も立花のビデオを数本見てみた。なるほどタイトルは大げさだが、中身から真実を探すのは、たらこスパゲティでタラコ一粒を探すくらいの労力が必要で、大部分は他ですでに公表済みの動画の再編集で、いったいこれのどこに人を動かす力があるのか首を捻るものだった。

 彼は「上っ面で物事を判断しない」人向けに動画を制作したとするが、構成そのものが彼の言う「上っ面」な人しか受け付けない内容で、立花自身の映像人としての経験不足と滑舌の悪さもあり、まとまった主張がどこにあるのか、観ても何の印象も残さないようなものに成り下がっていた。

 今の制度に改善すべき点がないとは言わない。直すべきは直すべきだろうし、活用されていない資源は活用すべきだろう。発注や役職に能力に見合わないものがあれば、それは公正な評価で見直すべきだろう。しかし、それが無知蒙昧と混乱と狂騒の中でしか行い得ないというのであれば、その主張はたぶん間違いだろうし、成果も貧しいものしかないだろう。

 私も言われたことがあるが、それが不満なら「日本から出て行け!」という人がいる。こんな維新とネトウヨばかりの国は出て行っても構わないと思っているが、行った先で困るので、出て行くなら一人当たり500万円の手切れ金をくださいと再反論することにする。実は私の独創ではなく、ウクライナ難民を巡ってある国の政府が本当に提示したことである。これがまともな政治感覚というものだ。