「1年半でメモリの容量が倍になる」はムーアの法則だが、日常生活でこれを意識している人は日頃コンピュータ関連の仕事をしている人以外は少ないように思う。例えば私がサイトを始めたのは20年前だが、そこからやりくりすると20÷1.5=は13.3で、コンピュータの容量は1万倍(2^13.3)に増えている計算になる。パソコン通信の時代のファイルは数キロバイトで収まっていた。サイトの開設当初は無料サイトの上限一杯の50MBで400ページ以上のファイルをやりくりしていたことを思い出せば、宇宙は拡がっているのである。

※ジオシティーズ時代の話だが、そのため時折コンテンツを削って(削除)空き容量を増やす必要があった。

 数キロバイトのテキストファイルも画像など納めたWebページだと約百倍となり、今の動画サイトだと数十MB~GBの大きさのものが普通で、画像に比べれば動画の方が平均百倍ほど大きいことから、この20年で進歩した分は概ね動画に関連するもので消費され、これが現在のコンテンツの主流であり、我々の使える空間は実は大きく拡がっていることがある。20年前と同じではない。ここで100人の聴衆と1万人とでは用いる手段に違いがあるのは当たり前である。

 ただ、コンテンツの制作に時間が掛かるようになっていることも本当で、この文章のような「覚え書き」なら、ワープロを前にカタカタとキーボードを打てば事足りるが、YouTubeの人気コンテンツではテレビ番組並みの手間が掛かっており、寡占とランキングというネットの特徴から、そうしないと見てもらえない、旧式な表現方法はよほどのことがないと人の目に留まらないということがある。

 こういう中でネットの表現活動を続けていくには、それなりの嗜みが必要である。誰にも読んでもらえないことを覚悟で文章を書き続けるのは空しさを感じるものだし、読んでもらっても知り合いの常連十数人ではモチベーションも下がるというものだ。

 そこで当方が考えたのが「覚え書き」という形式で、文章制作に用いるコストや責任を思い切って下げる。基本的には無責任ということで、推敲もあまりせず、前後の矛盾もこの際無視して「書き捨て」に徹するというものである。

 人に訴えることを考えないのであるから、例えば兵庫知事選で斉藤知事が再選されても兵庫県民の民意などは私にはどうでも良い話であるし、世の中の多数派がどうだとか、流行だどうだとかいうことも一切無視である。そういうことに頭を使うことは勿体ないということだ。

 それで何かメリットあるのとかいえば、ないこともない。予め考えをまとめているため雑談のタネには使えるし、期待しているのもせいぜいその程度である。商品や役務を提供しているわけでなし、自己PRに対する期待値がほとんどないのであるから、これはこれでいいとなる。

 とりあえず、今の世界では動画サイトが花盛りだが、次はどこへ行くのだろうか。動画ほどリソースを消費し、誘引力のあるコンテンツの存在はほかにない。もうしばらくすれば、これまで作られた全動画や全文物を納めてもなお余りあるようなデジタル空間が現出することは確実だが、人工知能は有力な一つかもしれない。何でも収まるといっても、何でも目を通す時間は我々にはないために、煩瑣な作業を確実に遂行できるエージェントが必要である。ただ、確実に現れるとは言い切れない。

 現在のスタイルにも問題はないとは言えない。「独りよがり」というのがその最たるもので、その孤立はグループや学校職場でのそれとは根本的に異なる。これらについては懐柔することで円満な人間関係は築けるし、現に私もそうしているが、ネットの世界では人と折り合うことは個性を失うことである。基本的に私はこの世界では「人は分かり合えない」と考えている。「分かり合った」人間など、この世界では価値がないからだ。やっぱりエージェントが必要だ。

 兵庫県の話があったので、久しぶりに公職選挙法に目を通したが、ご多分に漏れずこの法律も遅れていて、メディアの進歩をほとんど捉えていないことがある。インターネット(ウェブサイト)での掲示は相変わらずの「文書図画」で、有償広告は禁止されているが、動画を配信してアファリエイトを入手する機会については考慮されていない。アファリエイトでの報奨も「有料(公選法142条の6)」だとするには、古道具のこれでは解釈論のウルトラCが必要だろう。

 いずれにしろ、個人が片隅でカタコトと書いたくらいでは影響力のある時代ではなくなっている。注目させるにはうんざりするほどの手間と空々しいナラティブが必要で、それは現実の智慧や洞察とはどこまでも関係のないもので、手間のための手間であり、資本の手でそういった手間を掛けて提供されているものの中身がおしなべて陳腐なことを見れば、本質的なものについては人を説得することなど諦めて、自分の道を追究した方が良いとなる。

 公選法のようなものについては、私はこれを制定した人間もその政府も信用していないために、違反したところで「それがどうなの」というのが率直な物言いである。わずか二週間足らずの選挙期間で候補者の人となりが分かるのか、報道の中立性を盾に開票まで各候補者の見識や政策の当否につき何の情報も提供しない態度は適正か。国会議員はともかく地方首長や議員は5選も6選もしているが、本当にふさわしい人物なのかといったことには、この法律は何も答えるところがない。
 

 斉藤の追及は買収罪で行くというのがテレビの方針のようだが、その見識自体余り考えられたものには見えない私としては、さっそく躱され手詰まりになっているようだが、この筋書きの先の見えた陳腐な内容が、派手好きの女性社長のスキャンダルと合わせつつ、しばらく延々と続くのだろうなと、うんざりする気分である。「国民」がそれで満足しているというなら、それは私ではないし、しゃあないか。