ネット時代の常としてなにか事件が起こった場合に「原因はこれだ!」としたり顔で書いたり、「〇〇は誤解」と事の本質から目を離すようなことを書いたり、「〇〇は〇〇の問題」と当座の解決になりそうにない遠大な内容を記載した記事には注意が必要である。ウクライナ戦争など見ていると、この種記事のオンパレードなので、私もそのままでは鵜呑みにしない。
しかし、異なるベクトルの記事が乱立し、どれもトンチンカンという例は、「令和のコメ騒動」が我が国ではウクライナを凌ぐ、近年稀に見る椿事だろう。ドイツに拠点を置くロシアのフェイクニュースファームでもこれほどひどくはない。
インバウンドだとか、一般家庭の買い貯めという説にはあまり説得力がない。すでに購入量が制限されており、買い占めたくてもできないのが実情だ。少なくともエンドユーザーや飲食店のレベルでは無理である。
話を食料自給率や農水省の施策に求めるのも何だかなという感じである。当座の解決にならないし、そもそも農水省の役人は一般より事情には詳しい。不足が明らかな状況で対策を取らないのは不自然なことだ。
「米がなければパスタ」という言い分もあったが、パスタをタイ米に置き換えたときの惨状はある程度の年代には記憶のある所である。
実を言うとこれらの記事にはおしなべて欠けているところがあり、私はそれを基準に判断しているけれども、様々な論調の記事を見ると「一つの現象にいろいろな言い分があるものだなあ」と感心してしまう。そしてどれも的外れに見える。
欠けているものというのは、この現象は8月から始まった堂島取引所のコメ先物取引とJA(農協)の足の引っ張り合いであることが見て取れることがある。従来、米価は農協が一定の金額を提示し、産地や重量ごとに定額で取引されていた。
が、2月に堂島取引所が認可を農水省から取得し、8月に取引を開始することが決まったことがある。従来農協が決めていた米価を市場に委ねることで、農家には売価の予想をしやすくし、市場メカニズムで価格を決定するというものだ。すでに金融商品が売り出されており、1単位60キロで誰でも取引できる。最初の終値は1単位17,500円ほどだった。
価格の決定というのは難しい問題で、投機も一概に悪とはいえない。むしろ必要悪というべきで、これがなければ価格は力関係で変に歪められたり、恣意的に決められることもありうるのだから、市場での決定は長い目で見ればメリットは少なくない。
問題なのは、農協の制度も併存して用いられていることである。今年の買取価格は鹿児島県で60キロ19,000円と、内容によるが堂島の価格を上回る例も報告されている。
これだけ見れば、何が起こっているかは一目瞭然である。農家にしてみればできるだけ高く売れた方が良いのだから、農協と堂島の双方を見比べて高い方に売るのは当たり前である。
堂島の方も過去に同種の取引を実践して失敗した例もあり、新しい取引では保管に費用のかかる現物売買ではなく、一種の債券市場で取引できるようにしたことも災いしただろう。この場合、取引以前に農産物は特定されていない上、生産者が引き渡しの段階で反故にする可能性も十分あるからだ。規制はあったはずだが、実際の所は取引を促進するために参入のハードルはごく低かったはずである。
つまり、コメは足りているのだが、農協と先物市場の綱引きで、在庫は生産者とエンドユーザーの間で滞留しており、なおかつ報道で価格上昇が見込まれているために売り渋りがあり、市場に出てこない。これは制度に欠陥がある。
実を言うと、私の場合は異変に気づくのはごく早かった。我が家の米は「日本晴」というごく変わった品種で、今の米はこれより美味しいが、安く販売されており、行きつけのJAストアでは一番安い。
が、こういうのが一番危ない。導入したばかりの制度では、安い米ほど市場に出したときの値上がり幅が大きいからだ。なので真っ先に店頭から消え、こちらも事情を調べて上の仮説に行き着いたのが一月前である。今では魚沼産コシヒカリなど高い米も店頭から消えている。
本当ならこれは首相自らが記者会見に応じ、釈明しても良い話である。米価の決定に新しい仕組みを導入すること、それにより米価は一時的に上がる可能性があるが、長期的には消費者のメリットであること。逃げ回る必要がある話とも思えない。現にモリヒロは逃げなかった。
当然取り上げられて良い話が、今に至るまで伏せられていることには驚くばかりである。野党まで静まり返っていることから、かなり周到な根回しをしたのだろうし、それだけパニックも予測し得た話だと思うが、今の首相は生活感のなさでは歴代でも上位に入りそうな人物の一人である。
維新の吉村の「備蓄米の放出」はリップサービスだと思うが、当の本人は先物債権を山ほど買い込んでいるに違いなく、それで不正な利益を目論んでいるのだろう。株式だったらインサイダーである。が、この先物取引の仕組み、前例がなかったこともあるが、どうもあちこちが穴だらけ、杜撰だらけのようである。
(補記)
「コメがなければパスタを」は、私の地元の大学で客員教授をしている山口真由さんだが、私は信州大学はセンター試験以外で入ったことがないのでキャンパスで彼女の姿を本当に見るのかどうかは良く知らない。いるなら松本キャンパスのはずである。実を言うと、彼女の言説はかなりトンチンカンとは思ったが、別に不快も感じなかった。
なぜかといえば、とうの昔にこちらもスパゲティを茹で置きしてナポリタンを作っていたからで、作り方は見よう見まねで覚えたが、さすが喫茶店料理、タマネギや魚肉ソーセージを加えても5分で作ることができ、味も良く、意外と飽きないと良いことづくめだったこともある。私は隠し味にリー・ペリンのウスターソースを加えるが、ニンニクは使わない。
こういうのは本格派を気取ってはいけない。気取るとかえって不味くなる。時間を掛けてもいけない(焦げるからだ)。パスタ料理に魚肉ソーセージを刻んでいる私も複雑な気分だが、これはイタリア料理ではない、日本料理だと自分に言い聞かせることにしている。元は進駐軍の米兵のスパゲッティのトマトケチャップ掛けらしい。日本人の食生活もだいぶ変わっているのである。