「授人以魚 不如授人以漁(人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣り方を教えれば一生食べていける)」というのは老子の格言という話だが、私は老子で読んだことはなく、実は格言の出所は良く分からないらしい。

 これはどうも中国の古典の影響を受けた西洋の著述家が翻案して自著に記したものという話だが、そんなに昔の話ではなく、つい先日も、それらしい記述を読んだことがある。ここではこんな感じであった。

「人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣り方を教えれば一生食べていけることができる。さらに良いことは、教えると同時に釣りの道具を与えることである。いちばん良いことは、釣りの道具を自分で作れるようにすることである。このことを今後の途上国援助の指針にすべきである。」

 明らかに現代の文章だが、書かれたのは60年ほど前である。出典はどこかと言えば、現在私が手に取っている本だけれども、このブログ、ヲタクも良く来るので「教えてあげないよ」となる。私はそんなに親切な人間ではない。自分で勝手に調べるがいい。

 同じ本には次のような記述もあった。

「社会の荒廃とは、父親から息子に伝えるものが何もなく、息子からその父親に報いる(伝える)ものが何もない社会である」

 まさに今のサラリーマン社会そのものと思えるが、本のテーマは現代資本主義の進展における人間性の荒廃である。このような社会が形成されつつあることによる人や資源、社会の荒廃に警鐘を鳴らす文章である。

 で、先のススキノ猟奇事件を取り上げると、父親の措置は精神科医でもあったのだから、諸々の行動はそれなりに医学的正当性はあったものだったのだろう。効果もあったことは、娘が知識のない母親には軽蔑の視線を向けていたものの、医師である父は信頼仕切っていたことがでも分かる。異常の三重奏だが、医学というものの限界も思い知らされる話である。父親は精神科の臨床医として診療所ではそれなりに実績を挙げていたこともある。この事件の当事者に単純な倫理的非難はしないと書いたのは、父親の行為に一定の方針が垣間見えたことがある。

 とはいうものの、先に引用した文章はそれなりに一定の妥当性、真実に根ざしたものではないだろうか。真実とは科学的であるということであり、反復適用して同じ結果を期待できるという意味である。

 法律学を勉強していると、実を言うと私の法学教育は通常以上に困難であったし、教師も匙を投げていたものだが、一通り学び、ある程度歳を取ると、実は法学とは説得的な修辞の集積と見切りをつけることになる。裁判とは互譲で解決できない当事者の対立の止揚である。なので裁判官は修辞の限りを尽くして判決文を書くが、三段論法や判例を引用してのそれは、煎じ詰めればそれで説得される蓋然性の高い文章ということだけであり、いわゆる科学的な真実ではない。

※ 最初からそう言ってくれる者がいたら、私のこの教育は坂道を転がる石のように楽なものだっただろう。残念ながら、それほどの人物は周りにいなかった。

 どうも精神医学もそのレベルらしいとは事件を見て思ったが、この父親、自分の措置に疑いを抱くことはなかったのだろうか。彼の本では正しくても、現実に適用した結果があれでは学問に疑問を抱くか、あるいは誤解を疑うべきものと思うが、どうもそんなことはなかったらしい。日々の進捗に科学者としてある種の高揚感はあったかもしれない。とにかく倫理的非難はしないこととしたい。

 ただ言えることは、登校拒否(現代では出社拒否も含む)や、非行というのはどうも現代医学の最先端を持ってしても、解決の難しい問題らしいということである。殺人幇助が治療行為の一環として行われたなら、医師である父親には正当行為として免責される可能性があるが、もちろんそんなことはないと思うが、同じような問題は我々も日々直面するものである。殺人という極端なケースに発展するものは少ないが、それに対する我々の対処も往々にして非科学的、迷信的なものである。テレビのコメンテーターなんかその代表じゃなかろうか。

※ 社会科学なら解決できるかといえばそんなことはなく、その行き着く先がナチスの強制収容所だったこともある。

 とりあえずここでは難しい問題であると把握することにとどめる。少なくとも過小評価するよりはマシであり、問題のスケールと難易度を把握できれば、今は無理でもそのうち解決の方法が見つかる可能性はあるし、備えることもできることがある。