札幌・すすきののホテルで男性が殺害され、頭部が持ち去られた事件で、逮捕・起訴された親子3人のうち、母親の初公判が開かれました。裁判では、娘から「私は奴隷です」と誓約書を書かされるなど、いびつな親子関係が明らかになりました。

 凄惨な事件の資料整理をさせられる札幌地裁の事務官が不憫に見えてならない。いびつというより、これは自分勝手な人たちの集まりだったんじゃないだろうか。

 「起きる可能性のあることは必ず起きる」が私の信条だが、一見信じられないような話でも、実際に起きてしまったことは、これは誰にでも起きる可能性のあることなのだと思う方がいい。

 起訴内容については母親は争う様子で、罪状は死体損壊の幇助だが、殺人についてはすでに行われてしまっているので、その後の死体の処理を彼女が容易にしたかが争われる。しかし、状況から見て幇助犯を否定するのは難しいだろう。ただ、死体損壊の刑罰は三年なので、これは初犯で執行猶予が付く可能性が大きい。

 弁護士は付いているはずだし、科刑から見ても否認の理由はあまりないように見えるが、また弁明もこれで理由になっているようには見えなかったが、それでも否認することに、この事件を読み解く鍵のようなものが隠されているようにも見える。

 同じ屋根の下に住みながら、夫と娘が殺人行為に及んだことに関心を払わなかったのみならず、死体が持ち込まれてもなお、警察に通報せず解体のビデオ撮影まで許容したのだから、精神的ハードルがそもそも低かったと見ることができる。たぶんこの一家は全員がこの式で、思うに当たり障りのない範囲内でしか親と子は関わらなかったのだろう。父親は医師で欲しいものは何でも買い与えたが、たぶん愛情は与えなかったのだろう。

 犬や猫が人間の友だちになれるのは、彼らが一日一六時間眠るからである。一日の大半を寝て過ごしているために、彼らは人間に都合の良い時間に付き合えるペットでいられるのである。が、人間はそうはいかない。

 娘が死体を異常な方法で解体したのは、承認欲求の一種だったのではないか。彼女は医師を目指すことを期待されていたが、素行が悪く、年も嵩み、そういう将来は望み薄なものがあった。が、医術の心得がなかったわけではなく、それを認めてもらうために殺人を犯し、医師である父親の面前で死体を要領よく解剖したのである。事件が起きた当時、看護師など医療知識のある者の関与を疑う声は少なからずあった。

 半世紀も生きていると、事実というものは見る角度によって違ったものに見えることをしみじみ感じることになる。進行中の裁判につき、当事者に倫理的な非難を加えるつもりはないが、事件を見て、検察側の言い分を一方的に信じることができないこともまた偽らざる心境である。