「緩衝地帯(buffer zone)」とは誰が言い出したか知らないが、ここ数ヶ月の様子ではどうもプーチンらしい。簡明な定義では「対立する国家間などに設ける中立地帯」で、通常は戦略レベルで用いられる。例えばウクライナは西欧諸国におけるロシアの「緩衝地帯」と言われてきた。戦争の大義名分の一つに「NATOの東方拡大」があるように、ロシアが戦争を始めた理由は、ウクライナが西傾化することに危機感を覚えたからとされる。

 上の地図はISWだが、この戦争が始まってからずっとそうだが、あまり信用しない方が良い。あまり教養のない彼らはプーチン語をそのまま用いており、今回のハルキウ作戦は「緩衝地帯」の創設が目的だというが、すでに交戦している二国間に緩衝も何もあるのだろうか。

 これはむしろクレムリン内部のある種の婉曲表現として理解し、戦闘よりも彼らの事情を斟酌した方がより有益だと思うが、現実に戦車で追われている住人にはそうも行かないし、我が国も国際政治学者は東京大学でもクレムリンのことなんか何も知らない。テレビで要人のひな壇の位置をメモしていたソ連時代くらいのレベルである。

 気に入らないのは、ここ数日の西側報道が具体性に乏しいことである。どうも現地を見ていないらしく、全然関係ない場所のチャシフ・ヤールやポクロフスクの戦況がごた混ぜに記述されており、あまり信用できないとなる。ウクライナ側の報道を見ると、上の地図では真っ赤っ赤のボルチャンスクは問題なさそうである。

 むしろマリノフカ付近に3~5万人の部隊が確認されており、数からして中央管区軍のほぼ全軍だが、ヒリボケ・リプシ付近の戦況を観測して、状況に応じて大軍でなだれ込む構えと思われる。それでE105号線にある要塞は破壊され、ロシア軍はハリコフから20キロの位置に大きく近づく。読売新聞や産経新聞は「すでに侵入した」としているが、彼らロシア軍が何で移動していると思っているのだろうか?

近年稀に見るチープなワーキングディナー、米国務長官ブリンケンとウクライナ外相ドミトロ・クレバの会食。ブリンケンは14日、列車でキエフを電撃訪問した。

 ボルチャンスクにしろ、ハリコフに通じるE105号線のあるホプティヴァにしろ、幹線道路が通じているのはベルゴルドである。たぶん中央管区軍の司令部もそこにあり、国境に通じる道路はウクライナ軍が要塞化しているに決まっている。国境のマリインカに大部隊を集結させ、もう一方のボルチャンスクは焼き討ち程度の攻撃なのだから、これはやっぱり適当な所で手打ちにするつもりなのである。

 「緩衝地帯」を攻撃され、村落をいくつも取られたとしているが、何でこの地域がガラ空きでロクな防備も施されていなかったかといえば、道路がないからである。侵攻した部隊は装甲車を運び込むのも難儀なら、退却するのも難儀である。彼らは一見地図には写らない、大型トラクター用の農道のような所からやってきた。こんな場所で大部隊の展開はできない。

 ウクライナ軍は迅速に反撃し、昨日の戦果は平均の約二倍に達した。彼らの戦略予備も多くないが、30台くらいの戦車の掃討はどうということのないものである。進撃はヒリボケで止まり、たぶん、これ見よがしに置いてあるマリインカの主力は動かないだろう。あと、この地域では西部管区軍の部隊も確認されている。

アウディウカ・ポフロフスク周辺の地図、上の赤い丸がポフロフスク、ロシア軍はアウディウカとポフロフスクの中間付近にいる。青線はウクライナ要塞。

 しかしこれ、何のための作戦なのだろうか。視点をアウディウカ方面に転じると、前に二股状態の変な進軍と評したが、北側(E20号線)の方が勢いが良いようで、ポフロフスクにロシア軍が迫っている。南部管区軍は中央管区軍のようなホワイト職場ではないので、これは爆薬を括り付けたロシア歩兵がバンザイ攻撃で突撃して来ているのだろう。色分け地図なんか無意味である。シルスキーがいつまでも鶴翼陣形を維持できるはずはないことは、アウディウカの失陥から分かり切っていたことだ。

※ ハリコフの方は陽動ということなので、それは連動はしているだろう。「作戦指示書」の記述では。役者がその通りに演ずるかどうかは別の問題である。そして中央管区軍には明らかにやる気がない。ウクライナが兵力を分散しなければ、西進部隊は包囲殲滅の危機である。

 付近の地図を見ると、ウメスケ付近のウクライナ要塞は維持されているようで、ロシア軍は前回のままならば南北に二分されており、北側が西に突出している様子になる。E50号線があるため、この要塞への補給は比較的平易である。ポフロフスクに向かう敵に側背攻撃が可能であるが、これは兵力次第だろう。アメリカの援助が遅れなければ、ロシア軍がここまで突出することはなかった。


英国国防省は目標をボルチャンスクとしている。が、現在の兵力で戦闘を継続できる可能性はごく小さいともしている。

 ハリコフに視線を戻すと、ベルゴルドにいるモルドヴィチェフが何を考えているか気になる所である。このまま押してもハリコフもE105線も取れないことは、この将軍には分かっているはずである。この軍団の実力では、兵力を逐次投入しても、やっぱり強力に反撃してきたシルスキーにM1戦車やドローン爆弾の餌を提供するだけである。

 中央管区軍では、この作戦はプーチン当選の御祝儀に「やってやった」感の強いものだが、戦争中はアウディウカの血に飢えた狂気からは距離を置いており、作戦で貴重な戦車を損じた部下たちが不満を漏らしていることも分かる話である。肉挽き戦法はこの軍団では用いられておらず、これはいつ退却を奏上するかだが、迂闊にやるとクビが飛ぶので、彼としてはプーチンが諦めるのを待っているというところだろう。

 

 モスクワにいるラピンやドヴォルニコフなど、彼の元上官の誰に相談しても「戦争自体間違っている」という答えしか返ってこない。プーチンは48歳の彼には父親のような年齢で、ついダーチャにいる年金生活者の父を思い出してしまう。モスクワに彼の理解者はおらず、たぶん、今の彼のことを一番良く分かっているのは、敵であるゼレンスキーや司令官のシルスキーなのだろう。
 

(補記)

 久しぶりにキエフ・インディペンデント紙のツイッターを確認したが、これはISWも報告していたが、ウクライナ軍がハリコフ州ルクヤンスカ村で「兵員の生命を救うため」配置を変更した(退却の婉曲表現)とあるが、地図を見ると分かるが、これは変更して当然である。この村はピルナ・ヒリボケ間にある農道の袋小路で、その農道をロシア軍が西進しているのだから、他に逃げ道がない以上、これは放棄するしかない。むしろ良く脱出できたというものだろう。村にはすでにロシア軍が入っているが、これは世界中にニュースで流すほどの内容ではない。

 

(補記2)

 ショイグが安全保障会議の書紀に、旧書記のパトリシェフが補佐官に変更された人事は両人ともプーチンの側近で、後継者と目されていたことから注目を集めているが、実のところは何も変わらないというのが本当である。ロシア連邦の安全保障会議は旧ソ連にその原型を持つが、旧日本帝国の大本営に相当する会議体であり、超法規的な性質を持つ権能も良く似ている。思うに新国防相のベロウソフ(経済学者)はお飾りで、このような人事をしなければいけなかった理由はウクライナ戦争の進展というより国内向けのものである。二年に渡る戦争で成果を挙げられなかったことにより、ショイグには国民と軍双方の不満が鬱積していた。その矛先をかわし、プーチンが権力を維持し続けるための人事である。パトリシェフはプリゴジン事件以外これといった失点はなかったが、最近行われているウクライナドローン攻撃は安全保障会議が監督する国家親衛隊の管轄であることから、この身近なテロ攻撃で、やはり実質的な指揮者であるパトリシェフへの不満が高まっていたと考えられる。