昨年大河ドラマ絡みで岐阜県関ケ原にある関ケ原古戦場記念館を訪れたが、VRを駆使した合戦の展示は迫力のあるものであったが、展示物の一つに「世界の三大古戦場」のコーナーがあり、関ヶ原とワーテルローのほか、ゲティスバーグの戦いの展示物が目に留まった。肖像画もありリー将軍のほか、北軍の総司令官だったもミード将軍やフッド将軍の肖像もあり、これらの人物は私も良く知っているけれども、一見して分からないこととして、盛大にヒゲを生やした連中は揃って30代なのだった。リーも50代で白髯の老将軍のイメージがあるが、今ではそれほど年寄りとは言えない年齢である。
一昔前の海戦記など読むと、18~19世紀の海軍士官の成年年齢に驚かされる。ネルソンは14歳で戦列艦に乗り組んだし、近代海軍の父といえるフィッシャー提督も同じくらいの年齢であった。フィッシャーに至っては最初は戦列艦、次に甲鉄艦で、彼が計画したドレッドノートは画期的な設計で、戦艦大和を初めとする近代戦艦の第一号といえる艦だった。日露戦争で活躍した我が国の戦艦三笠より当然新しい。
つい先日読んだファラガット提督の伝記では、母親を黄熱病で失ったファラガットはポーター艦長の養子になったが、そもそもの死因は行き倒れたポーターの父に病気を移されたことにあった。10歳で戦艦エセックス号に乗り組み、12歳で少尉、13歳でイギリス戦艦フェーベとの戦いで捕虜となったファラガットはその後、アメリカ海軍史に残る偉大な提督への道を歩み始める。その後に復帰し、様々な艦を転属した彼は地中海で乗り組んだ戦艦ワシントンで艦に批判的な印象を持つ。
戦艦ワシントンは米海軍の旗艦で、最高の艦長と乗員が乗り組み、シミ一つない完璧な艦として米海軍の全乗員の羨望を集めていたが、ファラガットはその完璧さが乗員の多大な犠牲の上に成り立っていたことを鋭く見抜いていた。最初に乗り組んだエセックス号がポーター艦長の指揮の下、見かけは貧相でも強大な戦闘力を維持していたことを知っていたファラガットは艦長の方針に疑問を持つ。それでも接遇艦の副長としてプロイセンの王子やオーストリアの将軍と交わった経験は貴重な経験だったが、マハンは弱冠16歳のこの少年の持つ観察眼を同世代の他の少年には見られないもの、非凡と評価している。その後、22歳、ネルソンに遅れること1年で彼は最初の艦を指揮することになる。
マハンは著書で士官教育の重要性を力説しているが、ファラガットの受けた教育は捕虜の時にルイジアナの寺子屋で読み書きを習ったくらいである。彼の教育は一々が義父のポーターの指図の下で行われたが、理工系の修士以上が必須と言われる現代の米海軍の提督たちと比べると貧相なことは否めない。
※ そもそもこの時代、海軍士官学校というものはアメリカにはなかった。アナポリスはマハンが初代校長で、それもだいぶ後の話である。
名目は通商破壊戦としても、一度出帆したら海賊と大差なく、現にそういった乗員もおり、戦争科学の不徹底から放埒な失敗と軍艦の喪失も含む過大な浪費が行われていた当時のアメリカ海軍だが、マハンはこれらは大多数の国民のほんの一部に過ぎず、乱脈は現代海軍の礎となったものと当時を総括している。そしてそこにいたのはファラガットを初めとする多くは10代の少年たちだった。のちに彼らが艦長や提督となり、強大な海軍を築き上げて行くのである。
それに引き換え現代はどうだろうか、10代で乗艦などとんでもない話で、士官は20代から30代、50代の現場指揮官もおり、それでもまだ若いなどと言われる有様である。一昨年に沖縄に上陸した米兵が傷害事件を起こしたが、彼らなど30代なのにまだ二等水兵である。給料は年俸200万円もあるまい。人事の滞留が軍隊としての機能性を損ねていることは否定できない。軍隊に限らないが。
ファラガットがポーターにエセックス号の少尉に任命された時、まだ子供の面影の残る彼は当然ながら発育途上で、それでいて自分より体力も経験も勝る30代や40代の水兵を指揮しなければならなかった。フェーベ号に敗れた際には自分を置いてボートで逃亡する兵も目撃し、信頼していた人物だけにショックも大きかった。
当時のアメリカ海軍はイギリス海軍には勝利より敗北の方が多かったのでこういう光景はまま見られた。英艦フェーベの艦長は捕らえたポーターとファラガットを慰労会に招待し、ポーターに対しては戦術の誤りを、ファラガットに対しては士官の心得を説教した。まだ10代の少年にはさぞ身に沁みたに違いない。
今となっては遠い昔の話であるが、現在に通じる部分はあるにはある。先にAIの話をしたが、今後の世の中では英語が話せる程度ではエリートとはいえない。若年ながら高い知識を身につける人物が大勢輩出することは容易に想定でき、22歳にもなってやっとディプロマを受け取る程度の知力では対抗できないかもしれない。
※ 現に数学教育に問題を抱えていたアメリカはAIの導入で近年は優れた人材を大勢発掘していることがある。
もっと齢を取った我々としては、昔の杵柄でバブル時代の自慢話にうつつを抜かすような愚行はもうやめた方が良いかも知れない。知性は力である。後の時代の人間が前の世代より知性や教養で勝ることは少しも悪いことではない。が、少なくとも今の基準では50代や60代では老人とも言わないのである。
彼らが知の大だんびらを掲げるなら、受けて立とうではないか。経験はある分、少しは有利な所もある。そして今の時代、昔少し噛じったとか、ちょっと習った(でも止めた)くらいのことでも再構築して再生産するくらいのことは、昔よりもずっと容易になっていることがある。必要なのは老いで諦めることではなく、新しいものを取り込み、適応する勇気である。
我が国は高齢化が進み、政権にも国民にも諦めのムードが漂っているが、新卒一括採用などにこだわる財界人(愛人も何人も囲っている)、陋習に固執する政治家や体制に安住する者ども(昔東大を出たくらいしか自慢のタネのない連中)には決して見えない資源を我が国はまだ持っている。それが分からない人間が多すぎるのが、また権力を握りでかい面をしているのが、何とも歯がゆい。