異常気象で夏季が長引いたことにより、11月になっても戦闘が続いていたウクライナ戦争だが、月末の冬の嵐が両軍の戦闘意思を挫いたようである。27日頃から吹き荒れた暴風は戦場を凍りつかせ、黒海の波浪が沿岸の砲台を押し流し、出港したロシアの巡洋艦は荒天で港に引き返した。ロシア側の主張ではマカロフ号はそれでも巡航ミサイルをキエフに向けて放ったとされるが、着弾した様子はなく、ウクライナ側の被害も確認されていない。

 11月末のロシアの攻撃は天候が悪かったこともあるが、散発的でまとまりの悪いものであった。作戦目標であったドネツク市に刺さった魚の骨、アウディウカとマリンカに対する攻撃で、ロシア軍は用意した武器をほとんど使い果たし、直近の攻撃は一般自動車に分乗した旅団が降車して突撃するようなジリ貧のものであった。報告を見ても増えているのは人員の損害ばかりで、車両がなくなったのか戦車や装甲車の類は激減している。専門家によるとロシアが失った地上戦力を回復するには3年から5年の期間が必要という。

※ 戦車や装甲車の損害は減っているが、兵員の損失だけはコンスタントに一定ペースを維持しており、反転攻勢の当初と比べると損害の平均も5割増しほどになっている。装甲車を失ったロシアが人海戦術に切り替えたことは間違いないようである。

※ アウディウカの戦いはお手軽な動機で、比較的攻撃しやすい目標を狙ったロシアの攻撃作戦と当方は見ていたが、最近のロシア側の言い分では積極的な防衛作戦とされており、そのことにより指導部は想定外の損害を受けても目標未達成の誹りは免れるものになっている。その点、バフムトとは勝利条件が異なっている。

※ マリンカについてはロシア軍は制圧したとしたが、直後にウクライナ参謀本部が公開したマリンカ市の空撮写真は同市が(かなり前から)すでに廃墟になっており、戦略的価値のないことを示している。


 冬の嵐はウクライナ軍の反転攻勢も終了させた。結局、6月からの攻勢は各戦線を僅かに押し戻しただけに終わり、支援国には失望感が広がっているが、こと10月以降の戦いでウクライナ軍は過去にないほどの大戦果を挙げている。おかげでロシア軍は半身不随になり、ドローンとミサイルに頼るしかないほどに弱体化した。航空戦力と海上戦力を欠く軍隊としてはITやドローンを活用した戦いぶりも含め、世界戦史に残る健闘ぶりである。

 もしもウクライナ軍にF-16やラファール戦闘機が提供されていたなら、広大な地雷原はこれらの航空機が後方の砲台や戦車部隊を爆撃し、その間に地雷処理車が地雷を除去して進軍できただろう。海上戦力があったなら、広大な要塞を一つ一つ攻略しなくても艦砲射撃で補給線を寸断し、地上部隊は任意の場所からクリミアに上陸できただろう。黒海沿岸に細長く伸びたロシア占領地は各所で寸断され、孤立したロシア軍は降伏を余儀なくされただろう。

※ 当初からこういう戦闘機が用いられていれば、現在のウクライナ軍相手には滅法強い「空飛ぶがらくた」ロシアのSu-25(フロッグフット)や二重反転ローターくらいしか芸のない戦闘ヘリKa-52などの出番はなかっただろう。

 ロシアの計略に乗り、戦力を移動させて反転攻勢を事実上中断したウクライナについては、やはり兵力不足が問題となっている。現在までのところ、同国が動員した兵力は80万とされるが、大半が戦闘経験のない元市民の一般兵で、戦場の広大さに比べ実際に使える兵力が不足気味ということがある。寡兵でドンバスを攻撃されればザポリージャは放棄せざるを得なかったのである。

 戦いはザルジニーの予言通り陣地戦に移行したが、ロシアについては直近の攻撃の様子を見ると戦意はかなり低下しているようである。アウディウカの戦いはこの戦争でも特に死傷者の多いものであった。後に行くほどロシア軍の攻撃は散漫なものになったが、彼らが往く平原には先に討たれた味方兵の死骸がそれこそあちこちに散らばっていることがある。これを見て戦意を失った者が多いことは想像に難くなく、それでいて戦果もなかったのだから絶望感もひとしおである。

※ 保管場からレストアして、止めど付きせぬ様子で投入されていたロシア戦車もついに在庫がなくなったようで、最近のロシア軍の様子は現代的な兵器が本当に尽きたようである。

 ザルジニーは第一次世界大戦を例に挙げたが、このような消耗戦は双方の体制に大きな負担を掛ける。総司令官は民主国家であるウクライナの方が全体主義ロシアよりこの種の戦いでは脆いと指摘したが、硬直した戦術で死地に送り出されるロシア兵にも第二、第三のワグネルを期待する向きがあろう。どちらの体制がより脆弱かは現時点では判断できないものになっている。

※ アウディウカへの攻撃計画を立案したゲラシモフにしても、この小都市はプーチン再選への景気づけの手土産の一つくらいに考えていたと思われるし、昨年に20倍の兵力で攻撃して負けたカディロフ軍団という不吉な先例はあったにしても、ロシアの正規軍がこれほど苦戦するとは思っていなかっただろう。が、結果はいまだ辛うじて残っていたロシア軍の屋台骨を砕くものになった。

 私個人の感想を言えば、ウクライナの反転攻勢は当初から希望的観測と戦略的誤謬を含むものであったと考えている。そしておそらくは同軍の将星にも計画の危うさに気づいた者がいたはずである。彼らはウクライナ軍の損害を抑えるよう尽力したはずだが、その結果が吉と出るか凶と出るかは後の話である。

 なお、両軍が必死になって争奪しているドネツクという街を見ると、確かにこれは旧ソ連でもウクライナでも有力な工業都市だが、発展したのは案外遅く19世紀になってからである。街を作ったのはアレクサンドル2世の時代にロシアに植民したイギリス人である。元はユーゾフカ(ロシア読みで「ヒューズの街」)という。ヒューズとは街を作ったウェールズ人ジョン・ヒューズの名前である。

 

※ この時代はモータリゼーションが普及していなかったため、工場の建設とは街作りと同義である。ヒューズ以前のこの場所は未開拓の平野が広がる一寒村にすぎなかった。

 

 同時にドネツ炭田やクリボイログの鉱山も拓かれ、戦後は重工業地帯となったが、施政していたのはロシアではなくウクライナ社会主義共和国である。これは旧ソ連邦を構成した3つの社会主義国の一つで、モスクワの中央委員会にもある程度の発言力があった。ロシア語人口は多いが5割を超えたことはなく、十月革命では反体制派(ウクライナ独立派)の最大の拠点であった。歴史的に見ても、この街はウクライナなのである。

 

 6月以降10日ごとのフォローということでウクライナ戦争の話題を提供してきたが、戦闘が一段落したことで、当面は大きな動きはないと思われ、フォローはここで終了とし、以降は情勢を観察し、適当な時にレポートしたいと思う。