パソコン通信時代からネットとの付き合いが30年近くになり、それだけ長いと年老いたクジラのごとく、掲示板での乱闘やSNSの誹謗中傷合戦であちこちが傷つき、ネット人格は歴戦の強者のようになっているのだけど、あれこれ様子を見てみて気をつけていることもある。それは「言葉は人を縛る」ということ。
いつも思うのだが、世間で不祥事などあるとSNSにはワラワラと当事者を非難する書き込みが並び、道徳や世間常識、法の見地からさも正当な意見を吐く人が少なからずいるのだけど、匿名でそういった書き込みをする人は自分自身はどういう生活をしているのだろうか。
見たところネットの憂さ晴らし、本人自身は非難される人物より道徳的に劣っており、生活態度も自堕落で、全般的に見て人のことを言えた義理じゃないような人物が大半だと思うが。
言葉は記号で、一定の論理に従って並べていくとそれなりに整った文章になり、つまり解釈の幅が狭くなり、それだけ見るとひどく堅苦しく剣呑なものになる。つまりは国語力の問題なのだが、その自分で作ったパズルに惑わされる人が案外多いように見える。
ネットで道徳を説く人物も、実生活では道徳的な生活はしていない。極論を吐く人物は、吐いた結果がその後の言動に影響し、自分で自分を縛ってしまう。
言動には幅というものがあり、例えば、私はブログ開設当初からウクライナ戦争やビッグモーターの事件があったために、話題はそれらを取り上げることが多いけれども、実は何を書くのも私の自由である。たまたまそうなっただけで、読者の期待はあるけれども、私にそれに応える義務はない。
ウクライナ戦争を例に取るならば、私の言説はどう見ても「ウクライナ寄り、反ロシア」である。だが、だからといってロシア人の言うことが全て陰謀だとか、プーチンが全て悪だとは考えていない。正しい意見は認めるべきだと考えているが、実際はこれまでの言説の積み重ねもあり、そう簡単に方向を変えられない。プーチンの正しさを認めることはゼレンスキーのそれよりはるかに難しい。
慣れた人間ですらそうなのである。経験が足りず、たまにネットで憂さ晴らしに片言を並べるような人物に国語が操れるとは私は思わない。自分で発した安っぽいネトウヨ言葉に取り憑かれ、さらに過激な言動に走るのがオチではないか。
「君子豹変す」とか、「誤ちを改むるに憚ることなかれ」というが、こだわらないことが精神衛生のコツである。キリスト教には「ザンゲ」という罪の告白の制度があるが、罪(犯罪に限らない)も抱え込まず、率直に認めることが自分のためである。
罪を抱え込むとどうなるか、いわゆる刑法上の制裁は免れても、健康を損ない、周囲からは孤立し、生活も窮乏して徐々に追い詰められていく、罪を隠すために偽言などさらに罪を重ねれば、罪が罪を呼び、さらに追い詰められる。容貌も醜くなり、果てにあるものは死のみである。それも病死、孤独死などゾッとしない態様での最期となる。
キリスト教では、これを「神の裁き」という。人は人を裁けない。人を裁くのは神のみである。神の裁きからは何人も逃れることはできない。
そこに論理必然的な繋がりがあるわけではない。が、私は経験則として上記のことは真実だと考えている。罪は背負うものではなく、告白し、懺悔するものである。自己防衛のための弁解は当然すべきであるが、嘘を言ってはならない。他でもない自分のためである。
粗野な言葉でネットや職場で憂さ晴らしをする人物は、それだけで罪を犯している。悪びれず、見え透いた弁解をし、自己を正当化することで罪を深化させることさえある。そしてその影響は言動や外見にも目に見えるものとして現れてくる。
反面、罪の重い人ほど、改心した時の変容は周囲も驚くものになる。表情は明るく、思慮深く、人に対して慎み深く、寛容で、雰囲気も暖かみのあるものになる。
これは個性を否定するものではない。論理を突き詰めたり、極論を吐く自由は依然として残されているし、言論の多様性は民主主義の根幹だけれども、また、意見が異なることは互いに尊重すべきだけれども、自分の発した言葉には、縛られないことが大事である。