河野にChatGPTを応用したお絵かきAIの絵を見せてもらったが、「キリンを絞ってキリンビール」とかシュールなものもあったけれども、一見して思ったのは、「こりゃ目に見える商売はダメだな」。
確かに現在の所は構図や比率のおかしな絵が多く、嘲笑の対象になっているけれども、作画自体は質が高く、おかしな絵になるのはもっぱら人間側の指令に問題があるためで、数年もすれば解消され、分からなくなるのではないか?
松本零士風とか、手塚治虫風、安彦良和風などはジェネリックAIとして登録されてしまい、生半可な個性では追いつけなくなるのではないだろうか。細かい注文はそれはAIでも時間と手間が必要だろうが、イラストをペラっと渡して「和服着せて」、「髪型はこれ」、「姿勢はこれでスマイル」くらいの話は今でもできそうだ。
そのうち「絵を描く」という作業自体もペンとインクではなく、AIにパラメータを入力する作業を指すようになるかもしれない。
ただ、この人工知能は一般に言われているように「考えて」はいない。膨大なデータをアレンジメントすることに長けているだけで、人間のように思考しているのではない。なので、AIの突きつけた課題は「思考とは何か」ということだろう。
旅先に小さなガジェットを持って行き、DVDを「デーブイデー」と発音する社長が喋るだけで英語もフランス語もスワヒリ語も翻訳されてしまう世の中だ。ブラウザにも翻訳機能があり、言語の壁は今やなくなりつつある。
語学の習得は根気のいる作業で、何年も掛けて繰り返し覚え、しかも悪いメソッドと良いメソッドがあり、独学で悪い方に嵌るといくら時間を掛けても覚えないというものだが、AIは数百、数千倍の速さで習得してしまう。そんな時代に語学教育の意味はあるのだろうか?
それでも、意味はあるんじゃないかと思う。店先で「Benir du lac」という商品があり、「湖の恩恵(正解:湖の恵み)」だネとすぐ読めたが、私のフランス語の程度などこの程度である(一応説明は全部読めた)。ウクライナで戦闘が行われており、報告はキリル文字で大部分は翻訳して読んでいるが、地名など原語を見ないと分からないものは原語でどれと分かる方が分からないよりずっと良い。一応キリル文字は見れば発音はすることができる。AIに比べると、ずいぶん劣った能力である。
英語の文献を読んでいる時には、戯れに漢文に訳してみたこともある。案外有効で、実用性はあまりないがいざという時には使えるメソッドである。だが、言葉の意味を取るだけの作業には、現代はあまり価値がないのだろう。
掲示板などで言葉尻を捕らえて反論(大部分は誹謗)するような人も、そのうち価値がなくなる。そんなことはAIの方がよほど優秀にできるからだ。
それでも人が考えることはあるし、考えて作り出すものもある。「定型化」されたメソッドはおそらく価値がなくなる。目に見えないもので、五感で感じてオリジナリティのあるもの、AIでは決してたどり着けない、そういったものの価値を捉えて、評価することのできる知性の時代が来たのだと思う。
私自身は「AIは助手」だと思っている。これまでにないものを作り出すのに用いるツールであり、これまでより良質なものを作り出すために用いるものと考えている。「魂のない専門人」の時代では、人間らしさや個性は軽んぜられてきた。今は彼ら専門人が失業する時代であり、人間と個性が再び価値を主張する時代である。
もっとも、AIの有能さは単純作業を主とするロボットに移植され、大方の人間は失業してしまうかもしれない。共同体(つまり為政者)が個性と創造性というコンパスを提示しなければそうなるだろう。新しい価値はそれを表象する媒体(貨幣のような)をいまだ備えてはいない。しかしそれが作られれば、人間は灰色の資本主義を乗り越え、現代の我々では思いもよらぬ飛躍をするかもしれない。