つい先日親父の葬式があったことは書いたが、その際に数年ぶりに姉夫婦と姪甥に会う機会があった。姉夫婦は夫婦ともども教師で、どちらも国語教師で夫の方はかなり前から諏訪清陵高校に居座って牢名主のようになっているが、姉は小学教師である。姪甥は姪の方は良く分からないが、東海高校に通う甥は体育教師を目指しており、なったとすれば私の一族では初めての体育科教員ではないか。

 教員一家の彼らを見て、つい思い出したのがChatGPTのこと。昨年一世を風靡した対話型AIで、「息を吐くように嘘をつく」AIだが、使いようによっては有用なツールである。現在私はこれを外国語学習に使っている。

 外語学習については一定以上の年齢の日本人には「司馬遼太郎(大阪外大卒)の呪い」というものがあり、「中年以降の語学はモノにならない」という迷信があるが、食中毒を恐れて取材中の旅先でカレーライスとトンカツしか注文しなかった作家に言われたくはない。迷信は無視することとしている。

 使ってみた印象では、このツールはウィキペディアみたいに「正解を教えてくれるツール」ではなく、「正解に辿り着くためのツール」として使うのが良いと思う。ただ、コイツを見ていると秀才というものの限界と弱点を思い知らされる。

 AIの悪徳としては、人間同様これも自己弁護をし、すぐに「撤回」など持ち出すあたりタチの悪い秀才そっくりである。頑固なこともあり、何度訂正を求めても同じ答えを返してくるあたり、人間にもこういうのがいるなと思いつつ、なるほど、今世紀では秀才を名乗るにしても「GPT並み」ではまずいのだなと思わせる。

 現実にもChatGPT並みの判断力のなさ、思考力のなさでも、名門大学の肩書と履歴だけで管理職や専門職をやっているような人間は結構多い。いや、能力ではGPTには敵わない。どうやって測ったのかは知らないが、このAIのIQは155という説もあり、これは並の人間で歯の立つ者はほとんどいない。

 が、高卒の社長が名門大学卒の社員をうまく使っている例が珍しくもないことと同様、知力に劣るからといって劣等感を感じることはなく、小学生でもこのIQ155の召使いは使いこなすことができる。以前の時代で秀才を家庭教師に雇うのにいくら掛かったかを見れば、それよりも従順で博学な召使いのメリットは計り知れない。それが将来に何をもたらすか、胸がワクワクするものを感じないと言えば嘘になる。

 GPTが得意満面に披瀝する回答にはやや怪しいものがあり、どうも現在完了と過去完了の区別があまり付いていないようだ。定冠詞、不定冠詞も少々怪しい。回答は正解の方が多いが、「ニアピン賞」的なものも少なくない。回答も完全に信用するにはいかがわしいものがある。これだけで学習を完結させることはできず、紙の辞書やしっかりとした参考書が必要になる。

 それでも、どんなバカバカしい質問でも根気よく答えてくれ、教師にバカにされることもないこのツールは使いようによっては非常に有能なツールである。私の姉は愚問を3回繰り返すとたぶん怒り出すが、GPTは何十回でも怒らない。

 質問も丁寧な言葉で質問すれば丁寧に答えてくれるが、乱暴に尋ねるとぞんざいな回答になるというのも人間的といえば人間的である。

 検討を続けていくと、ある時点でこれ以上はもういい、十分だといった堂々巡りの時間がやってくる。そこまでに正解を得られていれば良いが、得られなかった場合は紙の本を読む時である。ポイントを絞って調べることができ、最終的に正解に辿り着く。そして蓋を開けてみれば、その時間ははるかに短くて済むのである。

 年中パソコンに向かっているわけではないので、外語以外では試していないけれども、たとえばもう少し込み入った内容、論理の構築が必要なものについてはどうだろうか。余裕ができたら試してみたいが、今のところは手一杯である。

 いつも思うことだが、年を取ったとか馴染みがないという理由で新しいテクノロジーを忌避する人が世の中には相当程度いるが、確かに進歩はすべてが有用なものではないが、テクノロジーというものは言われなくても勝手にやって来るものである。進歩を受け容れ、適応していくことが大事なのではないかと思う。

 なお、コイツはまだ人類を脅かすには至っていない。「コーヒーを淹れてくれ」と頼めばAIはコーヒーの作り方を教授してくれるが、目の前にあるのはパソコン(スマホ)の画面で、それだけである。