同じような人は読者にもいると思うので参考までに。

 大して友人も知り合いもいなかった私の祖父母の葬儀より執り行った親父の葬式の方がより簡素だということは先に書いたけれども、これには事情というものがあり、86歳という年齢になると彼の同僚のほとんどが死に絶えるか寝たきり状態になっており、それが近くでも、呼んでも来れないということがあった。

 親戚は祖父の代に実家とは疎遠になっており、だいたい私も行ったことがないし、顔も知らないしで、これも呼べないので親戚衆もごく少数にとどまった。晩年まで付き合いのあった岡谷工業高校時代からの親友は半年前に亡くなっており、これは親父には知らせなかった。もう一人の親友は寝たきりの痴呆状態であり、これは死んだことさえ分からないだろう。残りの私の知っている面子は全員が亡くなっている。

 それでも10年前に103歳で死んだ婆さんよりはマシだったかも知れない。これになると同年輩は誰もいないので、葬儀の際に80年前の赤穂中学の教え子が弔問に訪れた時には遺族の我々の方が驚いた。聞けば婆さんは故郷の中学で教師をしており、その事実自体知らなかったが、教員をしていたということは女学校は出ていたはずである。もはや歴史書の世界で、もちろん戦前で、どんな様子だったかは私でも分からない。

 人によっては別の事情、ビジネスとか権勢を示す意味で葬儀を大々的に行う例はあるけれども、そういうものは最近のこの地域では見ないし、今や岡谷市の人口は4万人を少し切るくらいで、高齢化率は4割を超える。ウィキペディアにはもっとマシな数字が載っているが、私が見たものと違ったし、実感としてもそんな感じである。街には老人しかおらず、若者を見ることは稀である。

 香典も返す相手が見込めないのでいっそ止めようと提案したが、主導権を握っているのは私ではないので一律3万円と決め、葬儀の際には次は誰になりそうか見定めることにした。一部の参列者にとっては投資はすぐに回収できるだろう。私は取らない方が良かったと思っている。河野の場合は故人の意思が先だって伝えられており、香典はなしで済ませているが、仮に払っても半年後に回収できたことがある。

 葬式三倍の法則というものがあるが、正当な経費については支払うべきと思う。例えば納棺師、火葬まで一週間近くの時間があると遺体はそれなりに痛む。その都度、納棺師が整えて遺体を見れる状態にしていることがある。要人や王族などVIPの場合は体液を交換するエンバーミングという措置が施されるが、パンピーの親父にその処理はなく(必要もなく)、その分遺体の劣化は日単位で早まることになる。納棺師はセメダインと脱脂綿と顔料を駆使してかなり良い仕事をしたようだが、一部には遺体を腐らせる業者もあるというからなおさらだ。が、業者から支払われる報酬は中抜きもあり高くなさそうで、数をこなさないと生活できないことがある。棺桶はジャストサイズだったが、これは丁度良い長さに収まるよう納棺師が伸ばしたり縮めたりしたのだろう。

 火葬は以前の性能の悪いガス釜では焼けるのに3時間くらい掛かったが、新型の高性能焼却炉は優れたテクノロジーで普通の遺体なら1時間程度で灰にしてくれる。なので火葬の合間の与太話、故人を偲んでの談笑は短時間しか取れないが、これは今後考えた方が良いことかも知れない。

 葬儀の最中や後は弔問者に提供するお食事、「三倍の法則」がモロに適用される分野で岡谷シティーホールの場合は隣のいちやまマートの調製だが、普通に見繕えば1,000円くらいの折詰が4,400円、刺身つきが6,000円で提供されていた。2回提供したので供食は一人あたり1万円と少し。が、以前よりはマシという意見もあり、だいぶ前の葬儀では親類総出で大根や油揚げを煮たり焼いたりしていたのだから、この金額は高くないという叔父叔母やらのコメントもあった。

 なお、岡谷の場合はうなぎが名物であるが、これが名物になったのも葬式需要による。以前の岡谷市の人口は9万人弱で、同年輩の出稼ぎが多かったことから葬式は頻繁にあった。今回も付けたかったが高すぎるので止めにした。

 料理の場合は味付けを見ると料理人の履歴を垣間見ることができる。どうも学校給食の経験者のようで、食堂経営者の場合は味付けの基調はどの料理も同じと合理化されているが、出された料理の味付けは品目ごとに異なっており、技術は高かったことから、これは年配のセンター以前の給食経験者である。

 大学時代にハゲ頭の元国会職員の教授がプライベート・フィナンシャル・イニシアティブ(PFI)の効用を力説していたけれども、実業を知らない彼の頭の程度などこんなものである。合理化と民営化で質の高いサービスを提供するためには技術者を低廉な賃金で容易に確保できなければ成り立たない。その技術者は誰が養成するか、彼が一見非効率、非能率、ムダの塊と揶揄していた公的機関や大企業が養成していたのである。その泉が尽きれば、大阪の学校給食のような低品質で劣悪なサービスを他に選択肢もなく受け容れることになる。幸い今回は助かったが、次は動員を考えないといけないかもしれない。

 しかし、数ある費用の中でもいちばん腹ただしく、理不尽を感じるのはやはり宗教者への支払いだろうか。岡谷の場合は50万円が相場で、実際その金額だが、これも慣習で領収書は切られず、非課税文書だが文書すらなく、ほか、車代や御膳代も別にあることから、一見してかなりの利益率であり、この宗教ビジネスの阿漕さから、「墓じまい」を考える人が多いことも頷ける。

 お墓は親父は先に建てておいてくれたが、良く持って150年くらいである。私の実家の近くに母方の墓地(常福寺霊園)があるが、そこでも碑文を読めたのは天保時代までで、案外持ちは悪く、祭祀が途絶えた場合、故人の墓を見つけるのは相当困難だと想像できる。大半は慶応年間で読めなくなっており、そんなに長い間お寺と昵懇にしている家は一部の名家に限られると思うので、お墓についてはそれほど深刻に悩む必要はないと思う。制度上認められていないが、鳥葬でも良かったくらいだ。維持できないならできないで、100年後に子孫が残っている自信がなければ妙な義理立てはせず、遺灰は共同墓地に移して、さっさと閉じるのが正解だと思う。

 常福寺の墓地についてはいつからあったのかは話を聞いても良く分からない。ギリギリ碑文が読めたのが天保年間で、その後ろにもあったが石自体が磨減して割れて分解しており、敷地面積を考えるともう200年くらい、1700年(赤穂浪士討ち入りの頃)くらいの場所だと思うが、もっと古いという意見もあり、葬法は火葬した骨を三分割して先祖代々の墓と本人の墓、それと土葬時代の名残である賽の河原みたいな良く分からない場所に埋める方法で、祭祀が途絶えるとどこに誰の墓があるのか分からないものになってしまう。管掌している常福寺が臨済宗妙心寺派で、この寺と共にあったとすると1700年で私もそれが妥当だと思うが、それだと言い伝えによる家史と150年ほどの齟齬が生じ、まるで違うものになってしまうので、お寺以前は多分別の場所、山の中とか田畑の間とかに土葬していたものと思われる。

 長浜の下坂氏館は後醍醐天皇も立ち寄った近江の名家だが、この館の場合は堡塁のほか寺院も館内に持っており、このくらいやらないと先祖代々の墓というのは維持できないと思う。たぶん常福寺は家史とは関係はなく、江戸時代に招かれたのだろう。

 結論をいえば、故人はもう存在しないのだから、葬儀や墓地についてはケチるだけケチっても別にバチは当たらないということである。火葬のみというサービスもあるが、それでも別に良いと思う。私は火葬が大好きだが、これの良いのは故人が死んだことを確実に理解することができ、人間が所詮モノでしかないこと、永遠に存在できるものなど存在しないという無常をこれ以上はないほど感じさせてくれるからである。永遠の平和は永遠の怠惰である。無常の乾漠に時の流れを垣間見てこそ人は前に進むことができる。これこそが死者が生者に贈った最大の贈り物である。その点、この葬法を発明した釈迦は偉大な人だったと思う。

 気分が滅入る話なので、今日はここまで。

 

(補記)

 先と上のような文章を読むと、私がいい年をして父親の死をせせら笑っている人非人だと思われるかも知れないが、私が嗤うのは葬儀を巡る滑稽な生者たちで、実は葬儀の最中は泣き出したくなるのを必死で堪えていた。夜中に一人で対面したことも火葬までが連休を挟んでやたら長かったことで何度もあったし、その度に申し訳なかったと思うことしきりである。が、私の立場ではそれを表に出すことは許されない。平静を装っていたが、悲しみをあからさまに示す所作にわざとらしさを覚えていたこともある。私は最も冷静な人間だが、感情の量が人より少ない人間ではないことは自覚しており、忍耐はこれまで修練してきた自己コントロールの賜物である。