先のブログでプリゴジンの反乱は戦時下ということで不問に付されるのではないかという趣旨のことを書いたが、これは「時と場合による」と付け加えた方が良かったかもしれない。
政治的、あるいは戦略的に重要な事柄でも見過ごされることがある。ワグネルの反乱は事実だけ取り上げればロシア国家の統治機構に対する挑戦であるが、首謀者のプリゴジンの動機があまりにも素朴かつ幼稚で、国防相ショイグとの確執も国民を憤激させたり扇動したりするような内容ではなかったことがある。
もしこれがクリル諸島を日本軍が奪取したといった内容だったら、千島列島の重要性はクレムリンより遥かに小さいが、島の占領はロシア国民の広範な怒りを引き起こしただろう。街頭はデモ隊で溢れ、政府はウクライナで戦闘している師団の相当数を極東に派遣しなければならなくなっただろう。仮にそれで東部や南部でウクライナ軍に敗れたとしても。
※ 本当の話、日本が改めて千島、樺太の返還と平和条約の締結(ロシアの抱える最大の対外問題)を求めることがいちばんのウクライナ支援である。巡視船や自衛艦を領海に踏み込ませたり、警備船を拿捕しても良い。が、今の日本の政治家と国民にそんな度胸はあるまい。
「見過ごされることがある」とはそういう意味である。プリゴジンは革命家としてはあまりに素朴な人物だったし、政権奪取の意思も能力もなかった。そういうものであれば、この問題はワグネルが自ら鉾を収めたことで静かに終わらせることができるはずだった。
しかし、やっぱりこの国は国家としては何かが欠けているのかもしれない。ショイグが問題を蒸し返し、プーチンがそれに乗ったことでプリゴジンとワグナー軍団の運命は再び風前の灯火にある。これで喜んでいるのはウクライナ軍だろう。
※ こういう問題が前線に波及するには時間が掛かるので、今さらになってロシア軍は前線におけるワグネルの存在の大きさに気づいたようである。なのでここ2日ほどは塹壕戦なのにキロ単位で後退する負け戦が続いている。ロシア軍は行軍に参加した兵士まで含めて前線に呼び戻し、何とか対抗しようとしている。
この騒ぎがロシア国民になにかしたということはない。街頭ではワグネルはおろか大統領自身さえ支持するデモは一つもなく、忠誠を誓っているのは政権に近い高級官僚だけである。庶民は白々とした視線を向けており、騒いでいるのは政権側ばかりという様子である。
「反逆は必ず鎮圧されるのだ!」とのたまったプーチンにしても、その前日にジェット機で首都を逃亡したことは誰もが知るところであり、「ワグネルなんかに負けない!」と言っていた首都警護隊長(ゾロトフ)も応援を頼んだ空挺部隊の指揮機は対空ミサイルで指揮官ごと撃墜され、ヘリコプターは6機も撃墜され、ワグネルが近くまで来てようやく塹壕を掘り始めたことは泥縄の最たるもので、こんな有様で百戦錬磨のワグネル兵に対抗できたはずはないことはテレグラムを見ている者なら誰もが知っている。
※ 今さら書くまでもないが、ワグネルはスキルに応じて階層化しており、バフムトで集団突撃した囚人兵のイメージが強いが、中核の兵士は元ロシア軍やFSBの出身で各地の戦場を渡り歩き、そのスキルはロシア軍、ウクライナ軍を凌駕している。
首都まで延々千キロもの間、ロシア空軍も含めまとまった阻止部隊が一つも出現しなかったことも驚くことである。プーチンは「(ワグネル兵に)考える時間を与えるため」攻撃を留保したと言っていたが、真っ赤な嘘であることは明々白々で、ワグネルの進軍速度が速すぎて対応する暇がなかったというのが本当のところだろう。
※ この事件のもう一つの成果はロシアに戦略予備の兵力がほとんど無いことを示した点だろう。
放っておけば良いものを、後で自己弁護に汲々としたことで搔かなくても良い恥を晒している。西側のトラブル対策専門家なら「悪い対応」の見本のようなものであるが、ロシア以外の世界ではこれで炎上してあわや倒産という企業が少なくなかったことから、まずい対応がどんな結果を引き起こすか今から楽しみである。
※ むしろ自己弁護したことで反乱勢力を育ててしまうような気がする。
なお、プリゴジンを擁護しているように見える書き方ではあるが、国防相ショイグがこの機にワグナー軍団を含む民間軍事会社を登録制にしようとした政策自体は正当である。国家のコントロールを受けない軍事集団というものは常に危険な存在であり、ワグネルも最初から言われていたし、プリゴジンの軍団もその戦力を保ったまま国営化することは無理筋というほどのものでもなかった。
※ 周りのロシア兵を見てかなり粗末な扱いを受けるだろうことは誰でも思っただろう。ワグネルにはプリゴジンの経営する各種会社の福利厚生があり、格安で旅行したり、保養施設を利用できたりなど待遇は悪くなかった。
※ ブチャの虐殺に関与した第64親衛自動車化旅団はその後最前線を転戦させられ、昨年9月のハリコフの戦いでほぼ全滅(文字通りの意味)した。証拠隠滅のためとされる。
ワグネル兵を歓待していたロストフ・ナ・ドヌーの住民については、別の事情がある。ワグネルはかなり前からここを拠点としており、特別軍事作戦の開始以降は兵の数も増え、金払いの良いワグネル兵は市民の人気者だった。そのためこの街はロシアでも数少ない好況にあり、物価も他の都市に比べ上昇傾向にあった。レストランは平日でも満席で、街は戦闘服を着た兵士で溢れていた。
そこでプリゴジンが人気者だったことも、映像を見たプーチンが動揺したもののようである。事情を割り引けば驚くほどの光景ではないのだが、住民がプリゴジンとワグネルをこぞって支持している事実を見て、彼は彼らしい所業、政敵の排除に乗り出したようである。
※ 頭を切り取り、別の人物にすげ替えるのが常套手段である。ただし、民間軍事会社はかなり特殊な稼業で、適任者がそう多いとも思われない。