帰国以降何かと怪気炎を上げているワグナーのプリゴジン氏が武装蜂起してロストフ市を占領という事件は、ウクライナがこの人物をバフムトからロシア領内に放った時から予測の付きそうな話ではあった。
とはいうものの、20年以上に渡って築かれたプーチン独裁体制は強固で、排除されるにせよ人知れずドン川に浮かんでいるとか、謎の放射線症状を起こして入院するという方がらしかったが、知性を感じさせない物言いから政治的脅威にはなり得ないと判断されたのだろう。放言はそのままにショイグとの対立はついに武力抗争に発展してしまった。
プリゴジンは少年時代に陸上選手を志しただけあって頑健で、還暦を越えた体で戦闘服を着込んで荒れくれ者揃いのワグナー軍団を率いることができるのも健康に自信があることによる。ビジネスマンとしては極めて有能で、もし彼がアメリカに生まれていたなら自分の名前のついたビジネスで歴史に名を残しただろう。プーチンとはサンクトペテルブルクにあった水上レストラン以来の付き合いである。
元建築家のショイグは旧ソ連でもエリツィン体制でもそつなく仕事をこなしたテクノクラートで、8ヶ国語を解し、休日は釣りと趣味の絵画、歴史研究に打ち込む教養人である。父親はトゥヴァ共和国の有力政治家で少数民族の出身だが、農学者の母親はロシア人で、ショイグ一家は一時期ウクライナに住んでいたこともある。
この三人の関係を例えるとプーチンがさしずめ自民党総裁、ショイグが幹事長、プリゴジンが地元後援会会長のような関係にある。いずれにしても古い付き合いで、名指しせずにプリゴジンを「反逆者」と罵ったプーチンも困惑した顔をしており、二代目カディロフ軍団を討伐に差し向けている。
※ 二代目軍団ではワグナーに対抗できないため、プーチンはモスクワからサンクトペテルブルクに逃れて状況を注視している。ロシア軍主力はウクライナに釘付けであり、非常事態でも討伐軍を編成できない恨みもある。
モスクワではなく対ウクライナ作戦の中心地であるロストフを選んだプリゴジンの動機は少し検討が必要である。今のところ、彼がウクライナの味方という形跡はなく、和平への期待は時期尚早である。むしろその逆という可能性も否定できないからだ。
生い立ちから彼の思考法を考えるに、プリゴジンのビジネスの原点は出所後に開いたホットドッグ屋台にある。こういう商売を見ると良く分かるのだが、客に喜ばれる商品を安定して提供でき、ビジネスを大きくするには何より原材料の生産地を押さえることが肝心である。ケータリングサービスやレアメタル、血で血を洗う争奪戦となったソレダルの塩山など、その後の彼のビジネスは全てその延長線上にある。いわば30年前のホットドッグ屋台の成功体験で彼は戦争をやっているのだ。
危惧を感じるのはその点で、彼が大統領にふさわしい人物とは彼を含む誰もが思わないだろうが、彼がモスクワではなくロストフを選んだ背景には、この都市が対ウクライナ作戦の策源地で武器弾薬の集積地であることがある。
バフムトで砲弾不足を訴えていた彼には、現在行われている反攻作戦でロシア軍が押されている理由にはロジスティクスの不良があると考える理由が十分ある。次いでモスクワへの進軍を宣言したのはロストフでも不十分な在庫しかない場合にはショイグらを説き伏せて総動員体制に移行し、最終的にウクライナを打ち負かす考えがあると見ることができる。
※ この場合、彼のプーチンに対する忠誠心は維持されていることになり、行動は激情からの愛国的行動と見ることができる。もちろんプーチンは思っていない。
困惑するのはその点で、ゼレンスキーを高く評価し、ウクライナの主権を認め、特殊軍事作戦はでっち上げだと広言しているこの人物は、現在のロシア指導部より西側寄り、味方にできそうな人物に見えることがある。
※ こちらの場合、プリゴジン一人では役者不足なので、現在はモスクワ近郊の刑務所に収監されているナワリヌイ、盟友のスロビキンなどが政治指導者、軍事指導者として浮上することがある。
どちらのプリゴジンが本当のプリゴジンなのか、いずれにしろ航空作戦への影響はなさそうで、今日のロシア軍は重爆撃機から50発以上の巡航ミサイルを発射し、対ウクライナ作戦は現在も続いている。が、ロシア指導者がワグナーの反乱を認定したことで、現在の主要な前線指揮官でワグナー派と目されているスロビキンや他のワグナー派将帥たちが戦いを続けられる時間はそう長くはないだろう。
それはウクライナにとってはチャンスとなる。彼らの計画がどこまでの事態を想定していたのかは定かではないが、まずは当座の要塞を抜き、メリトポリを攻略してクリミア半島を押さえることが重要だろう。
追記 「マリャルの荒らし」
プリゴジンはバフムトでウクライナ軍を打ち負かしたが、彼の軍団もほとんど壊滅し、撤退を宣言した5月末には再編したウクライナ軍が再びバフムトに集結しつつあった。この時点でロシア軍部隊は配置されていなかったため、戦闘力を失ったワグナーは撤退の際に包囲殲滅されることが予想されていたが、ウクライナ軍はなぜか見逃し、プリゴジンは夜陰に紛れてバフムトを後にした。
※ CNNに出演したハートリング退役中将は殲滅説を取る。
帰国後のプリゴジンは沿海州を訪れて戦死したワグナー兵士の家族を慰問したりなど芸の細かいところを見せたが放言は相変わらずで、止めどなく国防省批判、政府批判を繰り返す彼の繰言はシロビキらには「マリャルの荒らし」と陰口を叩かれていた。退却の経緯からウクライナ政府との間に何らかの密約があることを疑う向きがあったのである。マリャルとはウクライナ国防省で対ロシア情報戦略の中心人物であるハンナ・マリャル国防次官のことである。またプリゴジン自身、バフムトでウクライナ軍との接触を試みたことがある。
プリゴジンを危険視したロシア国防省はワグナーの囚人勧誘を禁止し、民間軍事会社の雇い兵を直接雇用する方針に切り替えた。このことで彼のワグナー軍団は事実上禁止され、雇用契約を拒否したプリゴジンと国防省の確執が激化したことがある。先に述べた彼の思考方法からして、国防相の措置が「一線を越えた」ものに見えただろうことは想像に難くない。