戦闘が膠着状態になっていることから、識者の間では戦争はもう数年続くという観測が聞かれるが、私はこの戦争を終わらせること自体は案外簡単にできると思っている。戦況の変化でウクライナ軍が一定の条件下※でロシア軍を分断してクリミア半島をカットオフする戦略が現実味を帯びてきていることがある。

※欧米艦隊の黒海進出による制空権、制海権の掌握。

 この一年間で散々に示されたロシア軍の士気の低さを見るに、クリル大橋を落とされた場合、クリミアに残されたロシア軍が最後の一兵まで抗戦することは考えられない。おそらく数万、あるいは十万人以上が降伏することになり、その衝撃はプーチンが二十年以上に渡って築き上げてきた業績や威光を吹き飛ばすのに十分なものである。ただ、プーチン後のロシアの青写真は未だ霧の中であり、その点が欧米、特にアメリカが終戦に向けて足並みを揃えるのに躊躇している点と思われる。が、他の選択肢はロシア国内のクーデターを除けば、ウクライナ軍の戦力にも限界があることから、あまりないものと思われる。

 

 戦力を過剰に消耗したロシアの将官が大戦車戦に恐れをなしていることもある。プリゴジンのワグナー軍団だけは例外だが、これはバフムト近郊のソレダルの塩山欲しさである。戦後もソレダルがロシアの手に残ると思っているあたり、この人物の政治的識見のなさと視野の狭さを感じさせる。ゲラシモフははるか南のヴフレダルに部隊を集結させ、面従腹背と消極的攻撃策によって自身と戦力の温存を図っている。消耗がロシア本国の防衛にも支障を来すようなレベルになっているためで、軍事戦略における彼らの教義については前述した。

 識者が長期化を挙げる理由としては、制裁後のロシアが案外平静を保っており、モスクワなど市民生活にこれといった変化がないことがある。外国資本の多くが撤退し、ルノーの自動車工場も閉鎖されたが、代わりを国産品が埋めており、加えて中国のコモディティが従来より容易に入手できることから、戦争を続けてもロシア国民の多くは余り困っていないように見える。

 

 モスクワに住むロシア人学者も似たようなもので、この点だけを見ればロシアは長期戦を戦い抜けるように見える。ウクライナ軍の攻撃の及ばない工場で戦車を生産し、新兵を訓練して間断なく戦場に送り出せるような。人口比ではロシアとウクライナは3対1で、資源やGDPはケタ違いなのだから、続けられれば最終的にはロシアが勝つだろう。

 が、一見してロシア国民の生活に変化がないことについては、ロシアの国力ではなく、オリガルヒに搾取されていた同国の経済が「正常化した」ことの効果と見るべきではなかろうか。このオリガルヒについては、テレビに出るような識者はあまり知っているとは思われない。

 開戦前のロシアの輸出入は石油を中心とする輸出が40兆円、輸入は機械類などが20兆円である。このような輸出超過の経済の場合、為替レートは通貨高に振れるが、戦争が始まるまでロシアは一貫してルーブル安で、その通貨はかなり過小評価されていた。ルーブル※が急騰したのは皮肉なことに戦争が始まった後である。

 

※ウクライナの通貨はフリヴニャだが、これも戦前はルーブル同様の動きを示している。

 差額の20兆円はちょうどプーチンとオリガルヒが国外に持つ資産と同額とされる。詳しいことは誰も知らないが、オリガルヒは国際貿易で生じた利ざやを懐に、ルーブルに交換せずに豪華ヨットや別荘など海外資産に投資していたと見れば、彼らがロシアの実質的な為替市場の役割を担っていた※ことが分かる。石油はOPECを中心とする需給調整の仕組みがあり、ロシア産原油は産出コストに比べかなり高価格で取引されていた。ロシアでは輸出経済と国内経済は別の勘定で行われており、元々国民は貿易から僅かのメリットしか受け取っていなかった。2012年のWTO加盟以降も基本的な構造に変化はなかったものと思われる。

※ソ連崩壊にともなう混乱の中では必要悪だった可能性もある。初期オリガルヒの多くは旧ソ連の共産党員で工場や鉱山など旧ソ連の資産をそのまま横領した。

 経済制裁によりオリガルヒの海外資産は凍結され、莫大な利益を生んできた彼らの金融マジックは不可能になった。WTOからも事実上追放されたことから、中国やサウジアラビアなど貿易相手国はロシアの実体経済と「直に」交渉することになり、原油の産出コストも「適正に」計算されるようになった。そこで需給調整のメカニズムが働き、以前より強いルーブルと国際価格より大幅に安い原油が同時に実現したのだろう。石油産業は崩壊を免れたが、ここに国民の生活を大きく変える要素はどこにもない。ロシアは資源豊富な国で、ほとんどの必需品を国内で賄えることもある。

 オリガルヒと一般ロシア国民は別の世界の住人であるが、両者の間に立つプーチンは同時に権力者でもあり、以前はオリガルヒに担がれつつ※ロシア国民の金で苛政をしていたが、現在も国民の金で戦争を遂行する権力を持っている。国民の生活を大きく脅かさない範囲でという条件付きだが、今のところ影響は大きくなく、戦前の日本のように国家予算の9割を軍事費に注ぎ込むような暴挙も行われていない。徴兵も見かけ上は就労人口にほとんど影響を及ぼさない30万人程度である。

※プーチンは見かけ上大した資産を保有していない。彼の資産の多くはオリガルヒの名義だが、所有を保障する権力そのものを保持することによって事実上所有していることになっている。このロシア的所有権の観念はウクライナや旧東欧諸国にも見られるものだが、近代的な所有権概念の持ち主には理解不能なものである。

 この戦争のそもそもの発端は、悪政による統治の停滞がプーチン自身も否定しえないほどに明らかになってきたことがある。隣国である西欧諸国はロシアの二倍のペースで成長し、旧東欧諸国もロシアの軛から解放された地域は相応の成長を見せている。人的資源を活用せずに貧困のままに押し込め、国内投資は貧弱で、寡占と原料経済に依存する国の弱点と不公平が静かな国民の怒りを呼んでいる。欧米諸国の繁栄を見れば、ロシアで失政が行われていることは誰の目にも明らかだ。

 国民からより戦争資源を引き出すため、プーチンが行っているプロパガンダは今のところ成功しているようには見えない。ロシア国民の平静と見かけのプーチン支持は平均年齢の高い国民の現状維持志向と経済の自律調整メカニズムによる自然発生的なものである。ちょうど日本で就労人口の増加でGDPが増加したことがアベノミクスの成功と吹聴されたように。どちらでも為政者が行い得たことは僅かしかない。現状維持のイナーシャが強い社会においては、国家資源のドラスティックな再配置である戦争体制の構築はクリミア失陥以上の政治的リスクから逃れられない。

 オリガルヒは無力化され、軍事的にはクリミア半島は今やまな板の上の鯉である。ここで二重経済が崩壊したロシアがジリ貧になることは明らかで、勝利は待てば手に入る。ウクライナでは戦争で力を得たゼレンスキーが国内を刷新し、同国のオリガルヒは既に滅びたも同然である。彼は芸人上がりの泡沫政治家であったが、試練から学び、彼と直に対した者からは戦後の国家像をすでに胸に描いているとされる。プーチンは核をチラつかせて戦局の悪化を防ごうとしているが、軍の消極性もあり、戦局が現在以上に好転する見込みは薄い。国内に対しては核を民衆に向けて撃つわけにもいかない。

 こういう場合、行き詰まった為政者は往々にして別の方面に目を向ける。日本はアメリカと安全保障条約を結んでおり、これを攻撃しても北海道占領くらいのチンケな侵略しかできないだろう。資源も乏しく得られるのは昆布と芋くらいだ。バルト三国はNATOの加盟国で、フィンランドは準加盟国である。集団防衛機構の国々でもカザフスタンの大統領はいちいち反抗的で御しがたい。残るは中国の旧満州地域しかないが、この地域は100年以上前に一時ロシア領になったことがあるくらいで、あの中国軍が相手ならそこそこ戦えるとは思うが、ロシア参謀本部は第三帝国のそれのような精妙無比の組織ではない。2000年の大統領就任から23年、追い詰められたプーチンの選択肢は多くない。

<了>