はじめに
明治の昔から複数の名興行主を生んだ土地である旭川。
今回は個性豊かなその顔ぶれをご紹介します。
興業のマチ・旭川
その前にまずは旭川の興行の歴史について押さえておきましょう。
画像01 かつての旭川の劇場、映画館、寄席
画像01は旭川にかつてあった劇場や寄席、活動写真館(映画館)の写真です。
旭川にはこうした舞台芸能・映画関係の興業が行われた施設が古くから数多くありました。
このうち映画館で言いますと、最盛期には市内だけで20館以上あったと伝えられています。
このように旭川が興業のマチになったのには、3つ背景があります。
画像02 上川産米100万石突破祝典協賛のイベント会場(昭和3年・旭川新聞)
一つは、豊かなコメの生産です。
画像02は、昭和3年、上川米の生産が100万石を突破した際の催しの様子です。
寒冷地での稲作という苦労はありましたが、旭川のある上川地方は今も昔も北海道有数の米どころです。
そこから生み出される収入は地域経済の下支えとなり、興業の世界にも恩恵をもたらしました。
特に目立つのが、かつてたくさんあった旭川に本拠地を持つ大衆演劇の劇団です。
そうした一座の多くは、地域の各農村で行われる祭りに合わせて興業を行いました。
画像03 師団通の賑わい(大正10年ころ・絵葉書)
2つ目は、求心力のある商店街の存在です。
画像03は、大正10年ころの旭川のメインストリート、師団通です。
まだ小売流通をはじめとするマチの機能が道内の小さな市や町村に整っていなかった戦前、交通の要衝でもあった旭川は、地域において今よりも大きな求心力を持っていました。
このため師団通には市内外から様々な物品やサービスを求めて多くの人が集まり、それが多くの劇場や寄席、映画館の客にもなったんです。
画像04 第七師団の兵士で賑わうキネマ街(昭和初期か・絵葉書)
3つ目は、戦前、旭川に本拠地を置いていた陸軍第七師団の存在です。
画像04は市中心部の通称キネマ街に繰り出した兵士の姿です。
師団の兵士たちは、休みの日は積極的にマチに繰り出しました。
ただ共同生活ですので、みな大した買い物はありません。
このため外出の目的は飲食か娯楽がほとんどでした。
このうち娯楽では、やはり映画を見ることが多く、ほかに寄席や劇場も人気でした。
豊かなコメの生産、求心力のある商店街と師団の存在。
この3点が興行のマチ、旭川の成り立ちの背景にありました。
旭川・興行師列伝1・佐々木源吾&辻広駒吉
その興行のマチ旭川は、名興行師、大物興行師を多数輩出したマチでもあります。
劇場や寄席、映画館がたくさんあれば、それだけ興業の数も多くなります。
このため興行師も場数を踏んで、感覚を磨いていったという事情があったのでないかと思われます。
ただ旭川の大物興行師、開拓のごく初期にすでに現れているんです。
画像05 佐々木源吾(北海タイムス・大正6年4月24日)
それがこの佐々木源吾。
「丸サの親分」と呼ばれた博徒=賭博を生業にするヤクザの顔役です。
旭川初の本格劇場、佐々木座の経営者兼興行師でもありました。
源吾は幕末に現在の岩手県に生まれ、江戸に出た後、旧幕府軍の榎本武揚に従って函館に渡ったと伝えられています。
その後、函館を拠点に全道に勢力を広げていた博徒の丸茂派一家の親分、森田常吉の盃を受けます。
そして明治25年頃、旭川に派遣されて自身の一家、丸佐(丸サ)派を作ります。
画像06 「昇る旭川」の記事(北海タイムス・大正6年4月24日)
大正6年の北海タイムスの連載記事「昇る旭川」。
急成長する旭川をルポした記事です。
その中に源吾のことが詳しく紹介されています。
それによりますと、旭川で賭場を開いた源吾は、その儲けを元に料亭や遊郭の妓楼の経営に乗り出し、たちまちのうちに旭川一の多額納税者となります。
その子分は、最盛期で旭川と周辺に500人近かったといいます。
一方で、彼は私費で消防団を組織するなど、社会貢献も行いました。
その源吾が旭川に進出してすぐ、賭場とともに作ったのが芝居小屋です。
画像07 佐々木座の開業広告(北海道毎日新聞・明治32年10月5日)と佐々木座(明治35年・上川便覧)
明治32年、新聞に掲載されたた佐々木座の開業広告とその外観です。
佐々木座は源吾が旭川の中心部に持っていた自身の芝居小屋を改築して建てた本格劇場です。
娘義太夫、落語、浄瑠璃、浪花節、壮士芝居などに加え、東京から歌舞伎の興行を招聘することもありました。
ただ佐々木座の開業から5年後、源吾は突然、博徒渡世からの引退を表明します。
「開明の世にいつまでも賭博を生業にするのは大きな間違い」と話したと伝えられています。
そして事業のすべてを手下に譲り、自身は朝鮮半島の仁川、今のインチョンに渡って旅館を始めます。
さらにその数年後、源吾は旅館の経営を息子に任せ、旭川に舞い戻ります。
そして市内で茶舗と銭湯を経営。
ただこれも数年で売りに出し、今度は樺太の真岡に渡ります。
そして昭和3年、当地で亡くなったと伝えられています。
画像08 辻広駒吉(昭和15年・旭川市功労者伝)
なおこの源吾から、料亭と劇場佐々木座を引き継いだのが、画像08の辻広駒吉です。
この辻広、興行師としての能力は源吾をしのいだと言われています。
明治30年代には、東京相撲の招聘者=勧進元として手腕をふるい、当時の相撲協会から旭川の目代(もくだい)=興業責任者に指定されています。
さらに大正2年には、歌舞伎の名優、中村芝雀一座、大正7年には尾上菊五郎一座を旭川に招き、地元住民の喝さいを浴びています。
ところで、いったん旭川に戻った源吾が始めた茶舗とはこの店です。
画像09 丸サ前川茶舗
旭川中心部で今も営業を続ける前川茶舗。
先々代の経営者が源吾から店を買い取ったそうです。
前川茶舗の屋号はマルサで、現在店内で営業している喫茶の名前もマルサ。
源吾ゆかりの名前がいまも引き継がれているというわけです。
画像10 佐々木座改築の図面(昭和4年・マックス・ヒンデル 田上義也 大正・昭和前期の北海道建築界と建築家に関する研究)
ここで余談ですが、佐々木座についてのエピソードを一つご紹介します。
画像10は札幌の名建築家、田上義也(たのうえ・よしや)が残した佐々木座改築の図面です。
田上の研究書などによりますと、佐々木座は、昭和4年に改築され、この図面が示す回り舞台を備えた3階建ての新劇場に建て替えられたとされています。
ところが新聞を調べますと、その以前、辻広が佐々木座の建て替えを計画しているという記事は複数あるのですが、実際に建て替えられたという記事は見当たりません。
しかも佐々木座は、昭和6年に興行の内容を知らせる新聞広告を出したのを最後に動静が伝わらなくなり、廃業したと見られています。
3階建ての劇場に改築されたあと、わずか2年余りで廃業というのはいかにも不自然です。
たとえ廃業したとしても、できたばかりの建物は別の用途に使われるのが普通ですが、その形跡もありません。
・
おそらくは辻広が田上に改築の設計を依頼したものの、資金不足などの原因で頓挫し、設計図のみが田上の事務所に残された。
それが真相ではないかと思われます。
旭川・興行師列伝2・佐藤市太郎
続いては、異業種参入組のこの人物についてです。
画像11 佐藤市太郎(大正期北海道映画史)
神田館の大将と呼ばれた活動写真館チェーンの雄、佐藤市太郎です。
市太郎は、幕末の慶応3年、今の東京墨田区の生まれです。
武士だった父親が、維新の後で始めた商売に失敗し、若くして床屋修行に出されたと伝えられています。
そして20代で新天地、北海道に渡り、神田床と名付けた高級理容店を札幌で始めて成功します。
その後、当時、急成長していた旭川に支店を出し、さらに本拠地も旭川に移します。
理容業で財を成した市太郎ですが、この頃、里帰りした東京で、活動写真館が大盛況であるのを見て、驚きます。
そして旭川に帰るや、さっそく活動写真館の経営に乗り出します。
画像12 神田館チェーンの新聞広告(大正12年・北海タイムス)
こちらは最盛期に市太郎が新聞に出した広告です。
道内各地に11の神田館チェーンの名前が載っています。
画像13 第一神田館(大正後期・絵葉書)
その旗艦店が、当時の旭川の目抜き通り、4条師団通にあった第一神田館です。
大正6年の改築後は、一部5階建ての優美な姿を誇りました。
こうして北海道を代表する興業王となった市太郎。
その分限者ぶりを示すエピソードがいくつか伝わっています。
画像14 大正時代の浅草(大正8年・絵葉書)
画像14は大正時代の浅草の賑わいを写した絵葉書です。
市太郎は、年1回は里帰りをしましたが、その際は活動写真館の従業員なども連れていき、東京見物をさせるとともに繁華街で豪遊したと伝えられています。
その姿に、人々は北海道でどれだけ儲けているのかと噂にしたそうです。
もう一つは、郭遊びです。
景気よく豪勢に遊んでくれる市太郎は、旭川の中島遊郭の妓楼にとって、最高クラスの上得意だったようです。
一方で、佐々木源吾と同様、社会貢献にもお金を使っています。
画像15 造営まもない頃の上川神社頓宮(大正期・絵葉書)
画像15は、旭川市民の憩いの場、常磐公園にある上川神社の頓宮です。
造営まもない頃の姿ですね。
大正2年のこの頓宮の造営で、市太郎は多額の寄進をしたことが伝えられています。
さらに造営のための木材を運ぶ儀式、木挽式では、私費で大人数の音楽隊を組織、行列に華を添えています。
この他、お盆や歳末に困っている人たちのために炊き出しをしたり、施しをしたりするのは、恒例行事だったといいます。
画像16 炎上する第一神田館(大正14年・まちは生きている 旭川市街の今昔)
画像16は、大正9年、失火から炎上する第一神田館です。
一代で大興行チェーンを築いた市太郎でしたが、経営する活動写真館が相次いで火災を起こし、経営は縮小を余儀なくされます。
ただ市太郎本人は、亡くなる直前まで市議会議員を務めるなど、最後まで地域の名士であり続けたと伝えられています。
旭川・興行師列伝3・本間誠一
最後は、市太郎の後を引き継ぐように旭川の興行界に現れたこちらの人物です。
画像17 本間誠一(私のなかの歴史 1)
旭川を本拠地に、日本屈指の興行主となった本間誠一です。
本間は、明治41年、積丹半島にある現在の神恵内村に生まれました。
18歳のときに田舎芝居の一座を買収し、各地を巡業したのを機に興行の世界に入ります。
そして東京の新興映画会社の勤務などを経て、旭川で映画館の経営に乗り出したのが昭和12年のことです。
旭川には、子供の頃、商店で丁稚奉公したことがあり、土地勘がありました。
画像18 第二神田館(大正4年・北海の礎)
その映画館とは、佐藤市太郎が市内中心部に持っていた第二神田館です。
当時、経営不振から売りに出されていました。
敷金と家賃を払って市太郎から映画館を借りた本間。
持ち前の経営センスですぐに結果を出し、まもなく土地建物を買い取って国民劇場と名前を変えます。
こうして旭川で基盤を築いた本間は、戦後、本間興業を設立して道内外で映画館を次々買収していきます。
そして最盛期には全国で19もの映画館を経営する大興行主となるんです。
画像19 国劇ビル内部(昭和42年・旭川市中央図書館蔵)と現在のビル
本間興業の拠点、かつての国劇ビルの内部と現在の姿です。
国劇ビルが建ったのは昭和35年。
地下2階、地上9階建て、内部には5つの映画館があり、1〜2階は衣類や日用品などを扱う小売店で、国劇デパートと名乗りました。
ほかに飲食店や遊技場などもあり、東北以北では始めてのアミューズメントセンターという触れ込みでした。
画像20 長谷川一夫・中村歌右衛門
本間は、芝居や歌などのいわゆる実演の興業でも才能を発揮しました。
その際に生かしたのが、東京で映画会社の仕事をしていたときに築いた、歌舞伎役者や映画スターなど芸能界の人脈です。
このうち世間をあっと言わせたのは、当時の映画界の大スター、長谷川一夫と、歌舞伎の名優、中村歌右衛門による競演でした。
2人のスター俳優とも、それぞれ本間が身内以上と話すほどの深い付き合いをしてために実現した企画でした。
公演は昭和30年に札幌と旭川で行われました。
このときは本州からも大勢のファンが北海道まで観に来たと伝えられています。
画像21 元祖三人娘の映画ポスター(昭和32年)
画像21は昭和32年公開の映画のポスターです。
人気歌手の美空ひばり、雪村いずみ、江利チエミが競演して話題を呼んだ作品です。
この映画、もともとは3人がステージで共演したのがきっかけでした。
これも仕掛けたのは本間誠一。
最初は渋っていた3人も、企画が当たったことでレコードの売れ行きも伸び、映画の制作に発展したということです。
画像22 歌舞伎のソ連公園のポスター(昭和36年)
実演の中で、本間が特に力を入れたのが歌舞伎です。
歌右衛門らとの絆をもとに、彼は松竹本社にも大きな影響力を持つようになっていたんです。
画像は、昭和36年、当時のソビエト連邦政府からの依頼を受け、初のモスクワ公演を行ったときのポスターです。
この成功でソ連政府とのつながりができた本間は、以後、ボリショイサーカスやボリショイバレエなどのソ連政府が関係する日本での公演をすべて仕切ったと言われています。
こうした華々しい実績で、本間は日本の興行界を代表する大物興行主にのし上がります。
一時は大阪の吉本興行と並んで「西の吉本、東の本間」と称されたほか、不動産やホテル経営などの分野にも事業を拡大していきます。
その後体調を崩した本間は、昭和63年、79歳で他界しますが、本間興行の本社は最後まで旭川に残していました。
旭川で育ち、また旭川を晩年まで大切にした名実業家と言えます。





















