もっと知りたい!旭川 旭川郷土史ライターのブログ

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へー ほー なるほど!
写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

 

さまざまな文学者が、旭川について書いた文章や作品を紹介する「文学者が書いた旭川」。

後半は「大正以降編」です。

 

まずは大正時代に旭川を訪れた文学者から見ていきます。

 

 

 

宮沢賢治「旭川。」

 

 

 

まずは宮沢賢治です。

 

賢治が旭川に来たのは、大正12(1923)年8月2日。

いまから103年前のことです。

 

 

画像01 宮沢賢治(1906−1946)

 

 

宮沢賢治は、ご存知の通り、岩手県出身の詩人、童話作家ですよね。

明治29(1896)年8月の生まれなので、旭川に来た時はまもなく27歳という頃です。

 

 

画像02 宮澤賢治詩碑

 

 

旭川の中心部、旭川東高校前にある賢治の詩碑です。

設置は比較的新しく平成(2003)年です。

 

刻まれている詩「旭川。」は、文字通り旭川訪問のときのことを書いた作品です。

 

 

◆  宮沢賢治「旭川。」

 

植民地風のこんな小馬車に

朝はやくひとり乗ることのたのしさ

「農事試験場まで行って下さい。」

「六條の十三丁目だ。」

馬の鈴は鳴り馭者ぎょしゃは口を鳴らす。

黒布はゆれるしまるで十月の風だ。

一列馬をひく騎馬從卒のむれ、

この偶然の馬はハックニー

たてがみは火のやうにゆれる。

馬車の震動のこころよさ

この黒布はすべり過ぎた。

もっと引かないといけない

こんな小さな敏渉な馬を

朝早くから私は町をかけさす

それは必ず無上菩提にいたる

六條にいま曲れば

おゝ落葉松からまつ 落葉松 それから青くふるえるポプルス

この辺に來て大へん立派にやってゐる

殖民地風の官舎の一ならびや旭川中學校

馬車の屋根は黄と赤の縞で

もうほんたうにジプシイらしく

こんな小馬車を

誰がほしくないと云はうか。

乗馬の人が二人來る

そらが冷たく白いのに

この人は白い歯をむいて笑ってゐる。

バビロン柳、おほばことつめくさ。

みんなつめたい朝の露にみちてゐる。

 

 

 

画像03 「旭川」の直筆原稿

 

「旭川。」の詩の賢治の直筆原稿です。

 

元旭川図書館長の松田嗣敏さんの「宮沢賢治✕旭川 心象スケッチ『旭川。』を読む」によりますと、実は「旭川。」は未発表の作品。

ただこの原稿が残っていたので、後の世に伝わったそうです。

 

原稿は、丸善の原稿用紙に青っぽいインクで書かれています。

丸っこい字が何か賢治の人柄を感じさせます。

 

 

 

 

画像04 「宮沢賢治✕旭川 心象スケッチ『旭川。』を読む」(松田嗣敏著)

 

 

松田さんの本です。

 

実は賢治の旭川訪問について、以前の私の認識は単純なものでした。

樺太に向かう旅の途中、旭川で途中下車し、農事試験場を訪ねようと向かった。

ところがすでに試験場は郊外の永山地区に移転していて目的はかなわず、また汽車に乗って稚内に向かったというものです。

 

ただこの本によりますと、旭川に着いたのが早朝の4時55分で、稚内行きの汽車は正午前の出発。

その間、実に7時間もあります。

さらにこの列車に乗るには旭川駅だけでなく市郊外の新旭川や永山の駅から乗ることも可能でした。

 

 

画像05 当時の農事試験場(昭和3年・宮澤賢治と上川農業試験場)

 

 

こちら賢治の来訪当事の上川農事試験場です。

 

松田さんは、賢治が永山まで行ってこの試験場を見学した後、永山駅から稚内行きの記者に乗車した可能性も若干だがある、とするなど詳細に賢治の行動を推測しています。

 

このほか、詩に出てくる言葉、例えば「小馬車」が具体的に何人乗りのどういうものだったか、「六條の十三丁目だ。」というのは馭者が言ったのか賢治が言ったのか、タイトルに「旭川。」と句点がついているのはなぜか、といったように実に細かく考察しています。

 

松田さんは旭川の生まれ育ちで、長く図書館の司書をされた方。

郷土史の知識も豊富で、当事の旭川がどういうところだったのかという勉強にもなります。

 

 

 

岡田三郎「涯なき路」

 

 

 

続いては作家、岡田三郎の短編小説「涯なき路」です。

大正初期の旭川中心部や旭川にあった陸軍第しち師団の施設などが登場します。

 

 

画像06 岡田三郎(1890−1954・新進傑作小説全集)・「涯なき路」

 

 

岡田三郎は道南の松前生まれで、小樽育ちの小説家です。

第七師団に騎兵として入営した経験があって、2年間旭川で過ごしています。

除隊後の岡田は、役所務めを経て大正3(1914)年に上京。

早稲田大学に入って小説を書き始めます。

 

そして同じ年に予備役招集されて、旭川で3週間ほど訓練を受けています。

「涯なき路」はその時の体験を元に書かれた作品です。

 

まず描かれているのは、4年ぶりに旭川の駅に降り立ったときの様子です。

 

 

◆  岡田三郎「涯なき路」(その1)

 

「石狩川の長い鉄橋を轟々ごうごうととどろかして、町はずれの遊廓の家々の白壁などが、五月雨さみだれに煙った川楊かわやぎの立樹の陰に見えたりする畑の中をはしり過ぎると、やがて棟の低い人家と人家との間を通りつ漸次しだいに徐行して、間もなくA―――駅の構内に停まった。(中略)

 町はまだ全く眼覚めてはいなかったが、その姿は殆ど四年前と変りはなかった。停車場の横にはやはり広い空地が昔のまゝに残っていた。十月の末から翌年の五月の始めまで、半歳の間雪に埋もれどおしの広場の土は、今年も六月になって生えのびた、短い名も知らぬ草に蔽われていた。(中略)

 「おい、林君。」

 不意に上の方で声がした。 振り仰ぐと旅館の二階の廊下に、昔兵営で寝食を共にした誰彼が立っていた。私は軽く会釈した。

 「待ち給え、一緒に行こう。」

 やがて四五人の人々は旅館を出て来た。

 私達は丁度そこへ来合した鉄道馬車に乗った。日曜毎にひやかした勧工場かんこうば、青ペンキ塗の活動写真常設館、そんな建物に昔を思い出しながら、がたがた動揺の烈しい馬車に揺られて行くうちに、そちこちからおなじ仲間が乗りあわせた」

 

 

画像07 旭川停車場(大正4年頃・旭川市中央図書館蔵)

 

画像08 旭川駅前(大正期・絵葉書)

 

 

大正期の旭川停車場と駅前です。

 

作品のはじめに描かれているのは、旭川に着く直前の汽車からの情景です。

石狩川の鉄橋を過ぎて旭川に入ると遊郭などが見えたとありますね。

かつてあった曙遊郭のことです。

 

「林君」というのは岡田三郎自身をモデルにした人物で、この小説の主人公、語り手です。

 

停車場についた「私」は、旅館の2階から同じく訓練のため召集された予備役の兵士から声をかけられます。

この旅館、通りに面していて馬鉄の停留所のすぐ前のようなので、長く旭川駅前のシンボルだった2軒の旅館のうち宮越屋と思われます。

 

駅前の写真に写っている3階建ての2棟のうち右側の建物が宮越屋です。

ちなみに明治編で紹介した石川啄木が泊まったのも宮越屋でした。

 

 

画像09 馬鉄が走る旭川中心部(大正初期か・絵葉書)

 

そして主人公らが乗った馬車鉄道。

停車場前からメインストリートの師団通(現在、買物公園になっている通り)を経由して、郊外の第七師団司令部前を結んでいました。

運行期間は、明治39(1906)年から大正7(1918)年までです。

 

そしてそのあとの文章に、勧工場と活動写真館が登場します。

どちらも当時の師団通の人気スポットです。

 

このうち勧工場は、複数の小売店が集まった今で言うショッピングモールの小規模なものと言ったらいいでしょうか。

地元の人達は「カンコバ」と呼んでよく利用しました。

 

活動写真館は、明治40(1907)年の開業で旭川では最も古い第一神田館のことと思われます。

第一神田館はこの小説の描写の2年後、大正5(1916)年に一部5階建ての姿に大改装されます。

改装前は青いペンキで塗られていた事がわかります。

 

この後、小説は第七師団での訓練に赴く主人公の様子が描かれます。

その中に、現存する建物が登場する部分があるのでご紹介します。

 

 

画像10 第七師団司令部(大正初期か・絵葉書)

 

 

◆ 岡田三郎「涯なき路」(その2)

 

 

雨覆馬場あめおおいばばを出て見ると、雨は依然としてほそぼそと降っていた。よく手入の行届いた広い営庭を横ぎって中隊へ行くと、現役の兵卒等は、乗場演習にでも出ていると見えて、階段の下の薄暗い溜りに、二人の当番卒がいるきりで、中隊内は森閑と静まりかえっていた。

 私達は玄関をあがって廊下に立った。そして一団になって思い思いにあたりを見まわした。凡てが四年前とおなじであった。各班の前の銃架には、昔とおなじに騎銃が斜めに立てかけられてあった。通る毎に服装を注意するようにと置かれてある大きな姿見が、やはりそこの壁にかゝっていた」

 

岡田がかつて所属していたのは騎兵第七連隊です。

その兵営の描写ですね。

今も残る建物というのは、冒頭で出てくる雨覆馬場です。

 

 

画像11 旧第七師団覆馬場

 

 

こちらが現在の姿です。

農業関係の倉庫として使われています。

第七師団関連の建物で残っているものはたいへん少なく、大切にしたい歴史的建造物です。

 

 

 

齋藤史「師走の想い出」

 

 

大正の最後は、旭川ゆかりの歌人、齋藤ふみの文章を紹介しましょう。

 

 

画像12 齋藤史(1909−2002)

 

 

齋藤史は東京生まれですが、少女時代と女学校卒業後の2度、旭川で暮らしています。

これは父親のりゅうの転勤に帯同したためです。

瀏は陸軍将校で、歌人としても知られています。

 

この後、史は日本を代表する歌人となりますが、散文にも名文が多い事で知られています。

次に紹介する旭川時代を回想した文章もそのひとつ。

散文集「春寒記」のなかの「師走の想出」です。

 

◆ 齋藤史「師走の想出」

 

「寒くなり出すと、あっと云ふ間に雪が来た。指をかぢかませて漬菜つけなを洗ひ、たくあんを作り、ストーヴを据付け、薪を軒に高く積み上げる日の間にも、一日一日と目の先が重くなるやうに、陽の光が鈍って、女達は、いくら動いても動き足りないのであった。

 十二月に入ると、いよいよ北海道らしい激しい吹雪がつづいた。日がな一日絶え間もなく降る雪の窓をうつ音は、眠りの際までも耳につき、時に浅い夢の中にまでひびいた。(中略)

土地に生れ育った人々が、落ち付きはらって冬に籠り、當り前の事として毎日の雪を眺め、平氣に凌いで行くのが羨ましかった。

 何としても、色彩を求める気持が強く、ポストの赤さに、どきりとなったり、自分で貼った薄青い封筒の角の切手の(その頃の) とき色が、やたらに目に沁みたりするのも、不思議であつた。(中略)

折から、大正天皇御不例の報が、しきりにきこえて、傳導の仕どころの無い毎日の屈んだ心の中に、かなしく積つてゆくのであった。

 神去りました知らせを受けた夜は、殊に寒く、絶えず父の勤めさきから、かゝる電話を待つて、誰も寝るどころではなく、膝をかたく黙りあって坐って居た。馬の鈴の音ひとつ聞えない、くらい夜であった」

 

描かれているのは、大正15年の暮れの旭川です。

そして一番うしろの部分にかかれているのは、一家が暮らしていた師団官舎での12月25日の夜の様子。

時代が変わろうとしている時期の緊張感が伝わってきます。

 

実は大正天皇が崩御したその日のうちに改元の手続きが行われたため、この25日から昭和が始まります。

ただ年末だったので昭和元年は僅か7日間しかありません。

このため年が明けるとすぐ昭和2年となります。

 

 

 

小熊秀雄「旭川風物詩」

 

 

 

ここから昭和以降です。

 

まず旭川ゆかりの詩人、小熊秀雄です。

ここでは旭川について書いた詩をご紹介します。

 

 

画像13 小熊秀雄(1901−1940)

 

 

小熊が旭川について書いた詩といいますと、昭和13(1938)年、久々に旭川に戻って1か月あまり滞在した際に作った「旭川風物詩」の連作がよく知られています(小熊は昭和3年に旭川を去って上京、以後、東京で暮らしました)。

 

今回はこのうちの3作品、まずは「火の見やぐら」という詩です。

 

 

◆  小熊秀雄「火の見やぐら(旭川風物詩より)」

 

古き火の見は

時を越えてそゝり立つ

茫漠たる街と原野

夜も昼も見守る

はてもなき展望

こゝで火の番でも勤めたら

相当ながいきが出来さうだ

 

 

画像14 消防番屋常備部(昭和10年代・旭川消防100年のあゆみ)

 

 

詩で描かれたレンガ造りの消防の望楼、火の見櫓です。

マチの中心部の消防常備番屋(今で言う消防本部)にありました。

 

旭川にいた当時、地元の新聞社の記者だった小熊は、この望楼のてっぺんまで登った時の感想を記事に書いています。

 

続いて同じく「旭川風物詩」より「旭川駅頭所感」と「招魂社祭り」です。

 

 

◆  小熊秀雄「旭川駅頭所感(旭川風物詩より)」

 

旭川駅の朝の待合室に

北海の大時計

時を刻み

白衣の戦士コツコツと

木の足を鳴らす

温泉行のキップを手にして

彼等はいまは戦況を語らず

勇ましき戦士の顔黒し

  ×

芸妓二人

一人は肥へて

一人は背が高く

そはそはと旦那を待つて

しきりに策戦す

美しき女戦士は顔白し

 

「白衣の戦士が木の足を鳴らす」というのは傷病兵が松葉杖をついているのを描写しているのでしょうか。

「温泉行のキップを手にして」というのは、当時、旭川に近い景勝地、層雲峡に温泉を利用した陸軍の療養施設があり、傷病兵はそこに行くための切符を持っているということだと思います。

 

この駅の待合室にいる人びとの 様子も小熊は世相をルポする連載記事のなかで取り上げています。

 

 

画像15 旭川駅(昭和11年・陸軍特別大演習記念写真帖)

 

 

◆  小熊秀雄「招魂社祭り(旭川風物詩より)」

 

英霊招く

新緑の日の祭り

人間、社頭に雑沓し

何事かを祈る

雲高く

精霊遂に姿を見せず

五色の吹流し

芸妓の花笠

トントロントロン

手古舞

ジヤラン

まれにこの日は電車も混雑

農村出のお婆さんが叫ぶ

「なんだってさうわしを押すだアー」

 

第七師団の本拠地だった旭川には、戦争で亡くなった兵士を祀る北海道護国神社があります。

6月の神社の例大祭は招魂祭と呼ばれ、かつては全道から遺族らが旭川に集まりました。

タイトルの「招魂社祭り」は、この招魂祭のことです。

 

 

像16 旭川中心部(昭和2年・絵葉書)

 

 

 

おまけ・村上春樹と旭川

 

 

最後に、現代の日本を代表する作家、村上春樹について触れておきます。

 

 

画像17 村上春樹の著書

 

 

実際に彼が旭川に来たことがあるかどうかは定かではありません。

ただ実は村上春樹の作品には旭川が何度となく登場します。

 

といっても旭川が舞台になったシーンがある訳ではありません。

登場人物の会話の中に登場したり、登場人物の出身地であったり、暮らしたりした場所などとして出てくるんです。

 

村上春樹作品に登場する旭川というキーワードについては、元共同通信論説委員の小山鉄郎さんが詳しく書いています。

 

 

画像21 「村上春樹クロニクル BOOK1  2011-2016」

 

 

小山さんの著書「村上春樹クロニクル  BOOK1  2011-2016」です。

ここに村上春樹にとっての旭川についての詳しい論考が載っています。

 

具体的にどう登場するかというと、いちばん有名なのがこちらの作品です。

 

 

画像18 「羊をめぐる冒険」

 

 

昭和57(1982)年発表の「羊をめぐる冒険」。

旭川というキーワードが最初に登場した長編でもあります。

 

この作品では、主人公の僕が「十二滝街」という北海道の果てにある町に向かいます。

その町には旭川で列車を乗り換えて奥に進むことになっています。

簡単に言うと、この「十二滝街」は死者の世界、霊魂の世界で、その入り口に当たるのが旭川という設定です。

 

小山さんの考察では、村上春樹作品の中では、旭川はこのように死後の世界、霊魂の世界の入り口、つながりのある場所というイメージを持たされています。

 

村上作品を読んでいて、しばしば旭川が登場することは知っていましたが、具体的にそれが意味することまでは考えたことがありませんでした。

ただこの意味付けを頭において作品を読み返すと、なるほどと納得してしまいました。

 

 

画像19 「ダンス・ダンス・ダンス」

 

 

「羊を巡る冒険」の続編の「ダンス・ダンス・ダンス」です。

この作品では、闇の世界、死後の世界とつながる女性が登場しますが、彼女は旭川近郊の出身という設定になっています。

 

 

画像20 「ねじまき鳥クロニクル」

 

 

こちら「ねじまき鳥クロニクル」では、登場するノモンハン事件の生き残りという老いた霊能者が、やはり旭川生まれです。

 

ノモンハン事件は昭和14(1939)年に起きた日本軍とソビエト連邦軍の大規模な軍事衝突です。

旭川の第七師団も戦闘に加わって、多数の死傷者がでています。

 

 

画像21 「ノルウェイの森」

 

 

人気作の「ノルウェイの森」です。

 

この作品にはレイコという女性が登場します。

彼女は新たな仕事を始めるために旭川に行くことになっています。

その途中、主人公の「僕」のところに寄ります。

で、主人公が「あなたは誰かとまた恋をするべきですよ」と言いますと、彼女は「でも人は旭川で恋なんてするものなのかしら?」と返します。

さらに旭川について「あそこなんだか作りそこねた落とし穴みたいなところじゃない?」などと言います。

 

地元関係者としては、あんまりな言い方と思います。

ただ旭川が死後の世界の入り口だとしますと、こうした言い方も腑に落ちます。

 

ではなぜ村上春樹はこうしたイメージを旭川に持たしているのでしょうか。

これについては旭川の近代史な背景があると小山さんは示唆しています。

 

つまり旭川は、近代史の上で特に多くの戦死者を出している北海道の軍隊、第七師団の本拠地があった場所であり、その戦死者を祀る護国神社のある場所だから、ということです。

 

実は「ねじまき鳥クロニクル」のところでノモンハン事件の生き残りの登場人物の話をしましたが、村上春樹作品には日本の近現代の戦争の記憶がよくモチーフとして出てきます。

 

「羊をめぐる冒険」で言いますと、「十二滝街」には、「羊男」という羊の毛皮をすっぽりと被った男がいますが、彼はかつて日露戦争に行きたくないと身を隠した人物だという設定です。

 

私なりに解釈をしますと、こうした近現代の日本の戦争の記憶を辿っていったら、そこにかつて軍都と呼ばれた旭川という土地が浮かんできた、ということなのではないでしょうか。

 

なお小山さんの論考によりますと、村上作品では、旭川の他に、「海辺のカフカ」で主人公の少年が目指す四国高松も同じ様なイメージを持たされているそうです。