はじめに
今回は、昭和11(1936)年に起きた軍事クーデター、二・二六事件と旭川との関わりついて掘り下げます。
事件には軍内外のさまざまな立場の、そして数多くの人が関わりを持ちました。
実はそのなかに旭川関係者が少なからず含まれています。
背景には、戦前の旭川が、北海道に置かれた陸軍の組織(常備師団と言います)、第七(しち)師団の本拠地だったことがあります。
そしてその旭川関係者と二・二六とのつながりを詳しく見ていきますと、一部に何か不思議な、運命の綾とでも言えるようなエピソード=物語が浮かび上がってきます。
今回はそんな少し因縁めいた話も含め、書かせていただきます。
二・二六事件とは
二・二六事件の決起部隊(昭和11年・図説2・26事件)
二・二六事件は、昭和11年2月26日、武力による国家改造を目指した陸軍の一部将校によるクーデターです。
決起したのは、東京の陸軍第一師団、近衛師団などに所属する20代、30代の青年将校。
彼らは、部下の下士官兵約1500人を率い、総理大臣官邸をはじめ閣僚や軍幹部の私邸などを襲撃します。
そして多くの要人を殺害するとともに、首相官邸、警視庁、陸軍省、参謀本部などを占拠します。
二・二六事件の決起部隊(昭和11年・図説2・26事件)
これに対し、陸軍中枢は、当初、穏便な形での事態収束を図ろうとします。
が、激しい怒りを示した昭和天皇の意向もあり、次第に鎮圧の方向に舵を切ります。
結局、青年将校らは反乱軍と見なされ、投降を余儀なくされます。
そして特設軍法会議により、一審制、非公開の裁判が行われ、ほとんどのメンバーが銃殺刑に処せられます。
事件を伝える記事(昭和11年・北海タイムス)
この二・二六事件、複雑で多様な側面がある事件ですが、そのうち重要なものをみてみましょう。
一つ目は、背景に陸軍内部の派閥抗争があったことです。
対立していたのは、皇道派と呼ばれる日露戦争以降の最大勢力と、軍官僚を中心とする新興勢力の統制派です。
両者の最大の対立点は、国防に関する基本政策です。
皇道派は一国国防主義。
戦争は日本のみで戦った場合に勝算がある以外、断固として行わないという立場でした。
このため▼仮想敵国は当時のソビエト連邦のみとし、▼中国とは平穏な状態を保つ、▼そしてアメリカ、イギリスとは決して戦わない、との考えでした。
これに対し統制派は、集団国防主義を唱えます。
▼ドイツと軍事同盟を結んだうえで、▼中国を攻撃し、▼米英ソ各国と戦うための資源の確保などに国力の増強に努めるべき、と主張しました。
二・二六事件の決起将校は、いわば陸軍内の〝反戦派〟とも言える皇道派に属していました。
その彼らが起こしたクーデターは、統制派の排除を目指す側面も持っていました。
ところがその企ては無惨に失敗。
それをきっかけに、統制派は粛清人事によって皇道派幹部を軍中枢から排除、完全に権力を握ります。
事件を伝える号外(昭和11年・読売新聞)
2つめは、事件後、社会に対する軍部の影響力が増したことです。
その結果、日中戦争が始まり、遂には無謀な太平洋戦争に突入します。
これには先程書いた陸軍内の反戦勢力だった皇道派が力を失ったことが大きく影響しています。
太平洋戦争開戦時の総理大臣、東條英機は彼らを排除した統制派の中心人物でした。
さらに政財界の人々の間に、軍という武力組織に対する恐れの意識が蔓延、相対的に軍の発言力が増したという側面もあります。
昭和天皇(1901−1989)
一方、事件は、昭和天皇が生々しい感情を顕わにした特異な出来事としても知られています。
昭和天皇は側近の重臣たちの殺害に怒りを隠さず、自ら近衛師団を率いて反乱軍を鎮圧するとまで発言しています。
こうした諸点を考えますと、この二・二六、日本の近現代史の中でもひときわ特筆されるべき事件であることは間違いありません。
事件の旭川関係者
それでは、ここからは事件に関わった旭川関係者について見ていきましょう。
まず決起した青年将校の中に、4人、旭川にゆかりのある人物がいました。
村中孝次(1903−1937)
その一人が旭川生まれの村中孝次(たかじ)です。
父親は市内で飲食店を経営し、市会議員も勤めた名士でした。
村中は東京の陸軍士官学校を経て、故郷旭川の第七師団で少尉に任官、職業軍人としての歩みをスタートさせます。
その後、士官学校予科区隊長(士官学校の教官に当たる)となった頃から、昭和維新を唱える青年将校グループの中で中心的な存在となります。
そしていったん第七師団に戻りますが、昭和7(1932)年、今度は陸軍大学校に進学するため3度目の上京を果たします。
しかし、その2年後、クーデター計画を練っていたとして憲兵隊に逮捕され、6か月の停職処分を受けます。
さらにその後、陸軍内部の対立の内幕を暴露した文書を明らかにしたことから、ついに免官となります。
このように軍から追放された村中ですが、その後も同志の青年将校たちと密接に連絡を取り合い、二・二六事件の決起に中心的に参加します。
安田優(1912−1936)
2人目は、陸軍士官学校で、村中の教え子だった安田優(ゆたか)少尉です。
彼はその後、旭川師団に赴任して、野砲連隊の所属となります。
そして東京の陸軍砲工学校に派遣されて学んでいた時期に二・二六の決起に参加します。
なお彼はあとで詳述する元第七師団師団長で、事件当時、陸軍教育総監だった渡辺錠太郎大将宅を襲撃し、彼を殺害しています。
村中孝次と渡辺錠太郎(1874−1936)
一方、村中は渡辺が第七師団長をしていた時期に傘下の歩兵二十六連隊で連隊旗手をしていました。
渡辺はドイツとオランダで駐在武官を務め、陸軍一のドイツ通と呼ばれた人です。
このためドイツ語が堪能だった村中を高く評価し、ドイツの戦史の翻訳を命じたこともありました。
栗原安秀(1908−1936)と坂井直(1910−1936)
第七師団の勤務経験はありませんが、決起将校のうち、同じ時期に子供時代を旭川で過ごしたのが、栗原安秀と坂井直(なおし)です。
2人とも父親が職業軍人で、同じ時期に第七師団に勤務していたためです。
二・二六事件当時は、栗原が歩兵第一連隊、坂井が第三連隊の中尉で、栗原が27歳、坂井が25歳でした。
17歳の頃の齋藤史(1909−2002)
そしてこの栗原、坂井と、かつて陸軍将校の子供が通う私立の学校だった旭川の北鎮小学校で幼馴染だった女性がいます。
のちに日本を代表する歌人となる齋藤史(ふみ)です。
小学校では、史と栗原が同級生、坂井が2学年下でした。
北鎮小に通っていたことで分かるように、史もまた父親が職業軍人。
軍人歌人と呼ばれた齋藤瀏(りゅう)がその人で、大隊長、参謀長として2度旭川の師団に勤務しました。
史や栗原らが幼馴染だったのは、大正4年から9年にかけての瀏の1度目の旭川勤務の時代です。
北鎮小学校(明治末〜大正初期・絵葉書)
その北鎮小学校、この時期には珍しい男女共学の学校でした。
一クラスは20人前後。
父親同士も親しく、家族ぐるみの親しい間柄でした。
史は当時の様子を以下のように書いています。
「家族のような、兄弟のような、そんな同級生に栗原安秀がおりました。のちの、二・二六事件の栗原中尉です。そして下級生にはやはり同事件の坂井直がおりました。純心な少年たちでした。栗原は私共の両親を、おじさん、おばさんと呼び、わたくしのことは男友達のように、史公と呼び、こちらは女の子のように、くりこーなどと呼び合って、これは大きくなっても続きます。その最後までー。」(齋藤史「近景遠景」より)
「最後まで」というのは事件のことですね。
史はまた、この頃のことを次のような歌にしています。
落日の石狩川は燃えながら少女のわれの中を流れき
北蝦夷の古きアイヌのたたかひの矢の根など愛す少年なりき
2首目の「少年」は栗原と坂井のことです。
齋藤瀏(1879−1953)
3人はその後、いずれも父親の異動で旭川を離れます。
ただ栗原と坂井はともに職業軍人の道を進んだことから、昭和に入り再び深い付き合いが始まります。
というのも史の父の瀏が、彼ら青年将校たちに慕われたためです。
この時期、瀏は二度目の旭川勤務などを経て予備役となり、東京で暮らしていました。
子供時代、瀏をおじさんと呼んでいた栗原や坂井は、同士を連れてひんぱんに彼の家を訪れるようになります。
そしてしばしば酒を酌み交わし、昭和維新への思いを語り合いました。
これに対し瀏は軽率な行動を取っていけないと諌めつつも、彼らの心情に共感を寄せていました。
当時のことを以下のように回想しています。
「私が栗原と別れたのは、彼が小学生の頃である。小学生栗原は快濶ないい児であった。(中略)その安秀が、もう麻布歩兵第一連隊の古参少尉になって居た。軍服が彼の躰によく似合い、颯爽たる好青年士官であった。私の驚いたのは然し彼が少尉になって居た事ではなく、彼の談話に出る政党、財閥、特権階級等に関する話であり、国家改造の必要論であった。昭和五年のことである。(中略)彼は亦国内の政策に関してもかなり詳しく知って居(おり)、政党の腐敗堕落をこっぴどく罵倒した。『近頃の将校はそんな政治上のことも研究して居るのか』。私は意外の感を持って尋ねた。『高義国防は、政治も外交も、超越して居ます。それ故、私共は高義国防の見地で、之を研究して居る…』。(中略)『同士があるのか』。『全国に渡って』と安秀は力強く答えた。」(齋藤瀏「二・二六」より)
事件の背景
瀏が書いた栗原の様子にも一部現れていますが、ここで彼ら青年将校がなぜ決起に至ったか、説明しておきましょう。
身売り相談所の張り紙(昭和6年・図説 2・26事件)
画像は昭和初期の写真。
山形県のある村役場が、不況と凶作で困窮する村民向けに開設した娘の身売りについての相談所の張り紙です。
昭和の始まりとともに吹き始めた不況の風は、昭和4〜5年になってさらに深刻さを増します。
全国に失業者が溢れ、農村では凶作も重なって娘の身売りが相次ぐ事態となります。
大規模な労働争議が相次ぎ、社会は混迷を深めます。
事件で決起した青年将校の多くは、各地の師団の隊付き将校として、直接、こうした実態と向き合っていました。
入営した農村出身の兵士のなかには、妹や姉が身売りされる実家の窮状を訴えるものも多くいました。
若く実直だった将校たちは、こうした訴えに、次第に政治に対する不信感をつのらせていきます。
汚職事件を伝える新聞記事(昭和4年)
さらにこの時期、政界では大規模な汚職事件が多発していました。
政治への不信が高まるにつれ、犯罪の多発など社会のモラルの低下も著しく、人々はいっそう不安を募らせました。
こうした中、彼ら青年将校は、社会の実情を嘆き、いつしか政界の中心にいる腐敗した重臣を実力で排除することで昭和維新を断行するという思いを高めていったのです。
これが先程の瀏の文章に出てきた「国家改造の必要論」です。
第一師団の将兵(時期不詳・図説2・26事件)
画像は決起軍の中心だった第一師団第三中隊の将兵です。
当時陸軍内で勢力を伸ばしていた統制派は、次第に大きくなる改革志向の青年将校の力をそごうと、さまざまな工作を行います。
彼らを、対立する皇道派の尖兵的な存在とみなしていたためです。
決定的だったのが、昭和11(1936)年初頭の東京第一師団の満州派遣の内定です。
第一師団には青年将校のメンバーが多く、彼らは、日本を離れてしまえば決起は不可能となる、即座に実行するしかないとの思いに至ります。
齋藤瀏・史父娘
青年将校の思いについて、瀏は共感できるとしていましたが、実力行使は最後の手段だとも述べていました。
ただ満州派遣の内定を受け、彼もここに至ってはと決意を固めます。
そして彼らの考えに共感していた一部の財界人からの資金援助の仲立ちをするなど、支援に奔走します(結果的には、この行動が、事件後、瀏も刑に処せられる原因となります)。
一方、史も栗原らがどういう思いでいるかは十分に分かっていました。
遠縁の男性と結婚したため、夫とともに瀏の家で暮らしていた史。
父と彼らのやり取りを真近でみていたためです。
次に紹介するのは、この頃のことを書いた史の手記です。
「日を追って何かが煮え詰まってゆくような、重い予感がわたくしにも濃くなってゆきました。しかし、どんな形でいつあらわれるのかは、全くわかりません。あたりはかえって以前よりもしずかな感じさえあるのです。今も思うことですが、男達が、おのれの利害、生命を超えて、一つの事を思いつめ、もちろん幾度も迷い、ためらい考えているうちに、急に発火点のような時が近づいてきて、彼等自身にも予測できない速さと熱さとなって奔(はし)り出し、個々の意見をとび越し、それはもう止めようがなく燃え上る、ーもっとも慎重な人さえも攫(かこ)いこまずに置かないのだーということ。どこの国の歴史の中にも、人間のこうした火のようなものは、大小、方向、思想のさまざまの場合の違いこそあれ、出来事としてくり返されて来たのではなかったか、と思われるのでございます。」(齋藤史「おやじとわたしー二・二六事件余談」より)
満州派遣の内定から急速に事態が進んでいく周囲の様子がよく分かります(事件に関する史のスタンス、思いについてはまたあとで書きます)。
決起前後の動き
そしていよいよ決起が真近に迫ります。
これを巡り、栗原、瀏、そして史の深い絆を感じさせるエピソードがいくつか伝わっていますので、紹介します。
一つ目が11年の正月に青年将校が瀏の家に集まった時のエピソードです。ここで決起を決めたことを告げられた瀏は、以下の
ような歌を作ります。
思ひつめ一つの道に死なむとするこの若人とわがいかむかな
決起部隊を率いる栗原安秀(中央・昭和11年)
そして決行前日の2月25日、栗原は東京駅に瀏を呼び出し、翌朝事を起こすと告げます。
再び、瀏の文章です。
「二十五日、即ち決起の前日、栗原は、海上ビルに居た私を東京駅の食堂に呼び出し『小父さん、天祐があって、今まで苦心捜索して居た牧野の所在が今分りました。彼は湯河原の旅館に居るのです。――これは確実、同志及び憲兵隊からの知せです。実行の日が決まって、牧野の所在が不明なので、情けなく思って居たのに、――それが前日の今日判ったのです』。彼はほんとうに嬉しそうに涙を湛えてこう言った。『それで明日、早暁電話のベルが鳴ったらやったと思って下さい。そして大体成功だと、――もしベルが鳴らなんだら――いやきっと鳴るようにします――然しこれからはもうしみじみお話する機会もないと思います。或はこれが永久のお別れとなるかもしれません…』(中略)『成功を祈る』。と私はコップを挙げた。今生の別れとなるかもしれぬこの別れと思うと、私は何も言い得なくなった。」(齋藤瀏「二・二六」より)
牧野は前内大臣、昭和天皇の重臣の一人です。
このとき、栗原は軍服のどこかに使用済みの郵便切手を貼っておけば、占領予定の首相官邸に入ることが出来ると瀏に伝えています。
翌朝、瀏と史は早朝5時に起きます。
外を見ると、庭に雪が積もっていました。
「雪で良かった、旭川育ちのクリ坊とナオシならうまくやるだろう」。
瀏はそうつぶやきます。
そして6時半過ぎ、栗原から電話が。
瀏は襟の裏に切手を貼って用意してあった軍服に着替え、彼らがこもる官邸に向かいます。
警戒に当たる決起部隊(昭和11年・図説2・26事件)
瀏は青年将校の思いを汲んで対応に当たるよう、軍幹部に働きかけます。
しかし最初の方で書いたとおり、事態は彼等を反乱軍として鎮圧する方向に向かいます。
青年将校や瀏が頼みとした皇道派の幹部将校たちも、昭和天皇の断固鎮圧すべしという反応を聞くやとたんに腰が引けてしまいます。
栗原達は見捨てられた形となったのです。
なおこの事件では、軍が事件関係者の電話通話について大掛かりな盗聴を行ったことが明らかになっています。
そしてその通話を記録した録音盤=レコードがNHKの放送博物館に残されていることがわかり、昭和54(1979)年に番組化されています。
この中に、官邸を占拠中の栗原が外部の何人かの人物と電話で話した通話の録音があります。
その一つが、29日の早朝、栗原が自宅に戻っていた瀏と交わした通話です。
齋藤瀏と栗原安秀
この中で、瀏は、この日、決起部隊に対し鎮圧部隊が攻撃を始める可能性があることを伝えます。
そのうえで、元老の西園寺公望や公爵の徳川義親らが、陸軍同士の武力衝突を回避するため奔走していると付け加えます。
徳川義親(1886−1976)
実は瀏はこの前日の夜、徳川義親から電話をもらい、彼が、この日、宮中に参内し、天皇に青年将校への寛大な処置を願う予定であることを知ります。
瀏が義親らが事態収拾のために奔走していると伝えたのはそのためです。
ただ栗原は「間に合わんでしょうね」と応え、瀏も「うん、間に合わないと思う」と同意しています。
淡々としたトーンですが、それまでの経緯を踏まえると、なんとも痛切に感じる2人のやり取りです(この通話は「二・二六事件 電話」と検索すると、youtubeで聴くことができます)。
投降する決起軍(昭和11年・図説2・26事件)
そしてこの後、紆余曲折はありましたが、栗原らは裁判で自らの思いを訴えようと投降を決め、軍の刑務所である衛戍刑務所に送られます。
軍同士で撃ち合うことで、部下の兵を死なせることはできないという思いもあったと言われています。
一方、瀏も彼らに遅れて衛戍刑務所に送られ、反乱を幇助=支援したとして裁判にかけられます。
栗原らの処刑が決まった日、看守が小さく丸めた紙を瀏のいる房に落としていきます。
まず坂井からのメモ。
「お世話になりました。ほがらかにいきます」。
もう一つのメモには「おわかれです。おじさんに最後のお礼を申します。史さん、おばさんによろしく。クリコ」とありました。
クリコとは、子供の頃の栗原の愛称です。
瀏は紙を再び丸めると、そのまま口に入れて飲み込みます。
二・二六事件の慰霊碑(東京渋谷区)
画像は東京渋谷のNHK西門の向かいにある二・二六事件犠牲者の慰霊碑です。
襲撃した方とされた方の死者をともに慰霊する不思議な碑です。
死刑判決を受けた軍人、民間人の処刑は、この慰霊碑のある場所で昭和11年7月12日(安田、栗原、坂井を含む15人)と翌昭和12年8月19日(北一輝、村中ら4人)に行われました。
なお村中の処刑が昭和12年になったのは、青年将校らの裁判より遅れて始まった北らの裁判に、証人として出廷させられたためです。
2組の父娘
さて二・二六事件に関わった旭川関係者として4人の青年将校と、そのうちの2人と幼馴染だった齋藤史、そして青年将校を支援した史の父、瀏についてここまで紹介してきました。
実は事件についての旭川関係者の中に、もうひと組の父娘がいることが知られています。
青年将校の紹介のところで触れた元第七師団師団長の渡辺錠太郎とその娘、和子です。
故郷旭川での渡辺和子(1927−2016)
まず和子からご紹介しましょう。
彼女は、父錠太郎が師団長だったときに旭川で生まれた次女です。
18歳でカトリックの洗礼を受け、のちシスターとなり、アメリカなどで活動します。
そして39歳の若さで岡山のノートルダム清心女子大学の学長に就任。
長くその職を務めましたが、平成(2016)年、89歳で亡くなりました。
ベストセラーとなった「置かれた場所で咲きなさい」などの著書で知られ、生まれ故郷である旭川にもしばしば講演などで訪れました。
渡辺錠太郎と和子(時期不詳・渡辺錠太郎伝)
和子が、二・二六事件に遭遇したのは9歳の時です。
その朝、彼女は錠太郎の私邸の同じ部屋にいました。
そして父親が安田優少尉らに率いられた部隊に機関銃で殺害されるところを目撃するという凄惨な体験をしています。
実は、渡辺錠太郎と齋藤瀏。
錠太郎が赴任した大正15年3月から、瀏が転出した昭和2年4月までのわずか1年ですが、師団長、参謀長として同時期に旭川師団に勤務しています(瀏は、ズケズケとものを言うため、渡辺師団長には煙たがられたと書いています)。
そして和子が生まれたのは、瀏の異動の2か月前のこと。
ですので、当然、瀏は錠太郎に祝いの言葉を述べたにちがいありません。
その2人が、10年経たない間に、いわば〝殺す側〟と〝殺される側〟に分かれた、というわけです。
晩年の齋藤瀏(時期不詳)
続いて再び瀏と娘、史についてです。
瀏は、軍法会議で反乱を幇助したとして禁錮5年の判決を受け、2年後、仮出所するまで獄中にありました。
その後は、歌誌「短歌人」を主宰するなど、歌人としての活動を行う一方、執筆、講演活動に励みます。
終戦間際には、妻や史、史の夫とともに、生まれ故障である長野に疎開。
そのまま長野に住み、昭和28(1853)年、74歳で亡くなっています。
歌集「魚歌」(昭和15年・齋藤史)
一方、史は、昭和15(1940)年、31歳のときに、第1歌集「魚歌(ぎょか)」を発表。
新鋭歌人として注目を集めます。
その後も優れた歌を発表し続け、読売文学賞、現代日本短歌大賞など数々の文学賞を受賞、現代日本を代表する歌人となります。
第1歌集では、モダニズム短歌と呼ばれたフランスの象徴派の詩人の世界を思わせるような作品が萩原朔太郎らに激賞されます。
一方では「濁流」と題された二・二六関連の怨念のこもったような重いトーンの作品群も注目を集めました。
ここで第1歌集の作品の一部を紹介します。
まずモダニズム系の歌です。
白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう
定住の家をもたねば朝に夜にシシリイの薔薇やマジョルカの花
夕霧は捲毛(かーる)のやうにほぐれ來て
えにしだの藪も馬もかなはぬ
たそがれの鼻歌よりも薔薇よりも惡事やさしく身に華やぎぬ
まさにザ・モダン。
キラキラとした感性が溢れんばかりです。
続いて、二・二六関連の連作から。
春を斷(き)る白い彈道に飛び乗って
手など振ったがつひにかへらず
額(ぬか)の間中に弾丸(たま)をうけたるおもかげの
起居(たちい)に憑きて夏のおどろや
暴力のかくうつくしき世に住みて
ひねもすうたふわが子守うた
事件のとき史は第一子を出産直後。
このため「ひねもすうたふわが子守うた」と詠んでいます。
一方、こちらは第1歌集の歌ではありませんが、史の二・二六関連の代表作の一つなのでご紹介します。
白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼を開き居り
これも処刑のイメージが投影されている作品です。
齋藤史と晩年の瀏(昭和24年・原型 齋藤史追悼号)
史にとって二・二六関関連の歌は、晩年に至るまで創作活動の中心にありました。
そのことについて史は、対談の中で「不意に出てくるんですよ。何回でも出てくる。もう出さないでおこう、歌にしないでおこうと思うのに、年月をおいて何度でもでてきちゃうの」と語っています。
事件が昭和11年で、歌集発刊が4年後の15年。
その間に日本の軍国主義化はどんどん進みます。
そうした中でやはり青年将校が反乱軍とされた事件のことを直接的に作品にすると検閲にあうのは必至です。
このため史はぎりぎりのところを表現しています。
その抑制と、溢れ出る思いのせめぎあいのような緊張感が、連作に強烈な印象を与えています。
層雲峡を訪れた史(昭和55年・道北を巡った歌人たち)
せっかくの機会ですので、もう少し史の歌を紹介しましょう。
上の画像は昭和55(1980)年、71歳の史が53年ぶりに旭川を訪れた際の写真です。
史の後ろにあるのは、北海道を代表する渓谷、層雲峡にかつてあった旭川赤十字病院附属の診療所脇に建つ記念碑です。
第七師団転地療養所記念碑
この診療所、もともとは戦前に陸軍第七師団が建てた療養施設、転地療養所でした。
記念碑には創設当時のいきさつなどが詳しく刻まれています。
そのなかにこの稿で紹介している旭川ゆかりの2人の軍人、渡辺錠太郎と齋藤瀏の名前が出てきます。
建物はまさに2人が師団長、参謀長だったときに建てられたもの。
ともに深い関わりがあったためです。
記念碑に刻まれた2人の名前(左・渡辺錠太郎、右・齋藤瀏)
史はこの時の旭川訪問で、かつて暮らした官舎跡などを訪ねます。
そして層雲峡に2人の名前が刻まれた記念碑があると聞き、足を伸ばしたと聞いています。
この旅で史は多くの歌を残していますが、記念碑についてはよほど思うことがあったのか、4首が作られています。
ゆくすゑを誰も知らねば渡邊・齋藤の名もつらねたり
一つ碑(ひ)の面(つら)に
おびただしき年の数すぎて事過ぎて先逝きびとの記念碑に逢う
錆色の楢落葉(ならおちば)積む
二・二六に殺されし錠太郎の名ある碑(いしぶみ)
人の運命(さだめ)過ぎし思えば
いしぶみをめぐるわが身の何か雫(しずく)す
北の守り=北鎮師団と呼ばれた旭川第七師団で、同時期を過ごした2人の将軍。
その後に訪れた運命の奇妙さ、過酷さについて思わずにはいられません。
天皇をめぐる後日談
さて二・二事件は生涯に渡る史の作歌上のテーマだったと書きましたが、この話には興味深い後日譚が伝えられています。
ただそれを紹介する前に昭和天皇についての史の思いがどんなものであったのかについて触れておきます。
決起部隊の将兵(昭和11年・図説 二・二六事件)
事件はクーデター未遂という言い方をされる時がありますが、実はそうではないと考えています。
クーデターはフランス語。
いろいろと定義はありますが、端折って言いますと武力によって政権を奪うことです。
ただ決起した青年将校たちには、政権の奪取という思いはありませんでした。
彼等は貧困の放置など世の中がおかしくなっているのは、彼等が「君側の奸」と呼ぶ重臣たちや財閥のせいであると考えました。
そしてそこを武力で排除すれば世の中は正せる。
彼らの言葉で言えば、天皇親政の正しい世の中になると信じていました。
このため「君側の奸」を退けたあとは、彼等が信頼する皇道派の軍幹部に首相になってもらう程度の青写真しか持っていませんでした。
そのうえで、自分たちは改革の捨て石になるという思いでした。
稚拙と言えば稚拙、ですが純粋と言えばひたすら純粋です。
齋藤史(時期不詳)
そうした思いを史は痛いほど分かっていました。
勝手に軍を動かし多くの人を死傷させた罰を受けるのは仕方がない。
ただそこまで天皇を信じ、国を思う純粋な気持ちで事を起こしたのだから、少なくともその心情を汲んで欲しかった。
そんな思いが彼女にはありました。
実は、昭和天皇は、行き詰まった青年将校たちが、自決する決意を固め(一部は実際に自決)それを見届けてもらうため、天皇の使いを派遣してほしいと求めた際、「使いを出すなどもってのほか。死ぬなら勝手に死ぬがよい」と発言したと伝えられています。
天皇としては、自分が信頼する人々が襲われたことで怒り心頭だったようですが、史にしてみれば、それはあんまりだという思いでした。
彼女はこんな歌も残しています。
ある日より現神(あきつかみ)は人間(ひと)となりたまひ
年号長く長く続ける昭和
みづからの神を捨てたる君主にてすこし猫背の老人なりき
戦後、昭和天皇が行ったいわゆる人間宣言についての歌です。
史は「人間と言われて、悔しい気がした。人ならば間違いもする、そういう言い訳に聞こえた」と語っています。
召人として歌会始に出席した史(平成9年・原型 齋藤史追悼号)
こうした忸怩たる思いを持っていた史ですが、平成9(1997)年の歌会始に、今の上皇の指名を受け、召人(入選したアマチュア歌人とは別に歌を披露するただ一人のプロ歌人)として参加します。
史は前の年にも召人として出席を依頼する内々の打診を受けましたが、天皇家に対するわだかまりのせいか、辞退していました。
ただその3年前に日本芸術院の新会員として皇居に招かれた時、「お父さんは齋藤瀏さんでしたよね、軍人で」と今の上皇から声をかけられたことがあったそうです。
さらに歌人仲間でもある歌会始の選者から、「陛下(今の上皇のこと)はその後も事件のことを勉強しておられるご様子です」と告げられてもいました。
これらのこともあり、この年は指名を受けることにしたようです。
宮殿松の間と天皇在位中の上皇
そして宮殿松の間で行われた歌会始が終わり、選者5人と召人の6人のプロの歌人と、天皇・皇后との歓談の席が設けられたときのことです。
今の上皇はその場で「お父さんは瀏さんでしたよね」と再び史に声をかけるのです。
要するに、上皇は、自分の父親である昭和天皇の怒りのもと、史が二・二六で厳しい扱いを受けた人物を身内に持つことを理解したうえで歌会始に招いた、というわけです。
これを史が受け入れたことから、周囲では、大げさな言い方をしますと、天皇家と齋藤家の和解の瞬間と受け止めたといいます。
歓談の席にいた歌人の岡井隆の文章です。
「まづ、召人に向かつて、ねぎらひのお言葉があつたのち『あの歌は、どこでどういふ気持で作られたのですか』と陛下がお訊ねになる。それに史は、りんと聲を張つて、なにかと答えてゐらつしやる。わたしは、このお二人の問答を、ちよつとはなれた所からききながら、『うむ。これは天皇家との長いいきさつの、いはば和解の風景なのかもしれない』と思つて、あとになつてから、そんな感想を、選者の一人に、語つたものであつた。」(岡井隆「齋藤史全歌集解題」より)
晩年の史(原型 齋藤史追悼号)
事実、史は、歌会始の後、「これで長い間の胸のしこりがすっかり晴れた」と語っていたと伝えられています。
さらにこの日、松の間に向かう階段で、史はそこから臨む宮殿の庭に、栗原ら軍服を着た青年将校たちが並んでいる幻影を見ます。
同じ年に年に行われた対談では、そんな気がしたという言い方にぼかしていますが、そのことについて触れています。
「当日、御殿の正面の大階段を昇っていきました。先導がついてね。後ろの広っぱに軍服の軍人たちが並んでいるなっていう気がした。おかしいでしょう。私が自分で思っているからそんな気がするだけなんですけど。(中略)私一人があんなところに行って目立つようなことをした。何だかみんなに悪いなという気もしましたけど、まあいいや、『みんな一緒に行こうね』とつぶやいたことは事実です。それで、何かが後ろに並んでいると言う気がしたの。(中略)あの事件は一生、私と切れません。自分で望んでそうなったわけじゃないけれど。それも、何か一段落したなという気がするんです。そうしたら今年の春、グッタリしました。あの人たちもこの辺で、何とか楽になってくれるだろうというような気がしましたよ。」(齋藤史「ひたくれなゐに生きて」より)
最初に今の上皇から声をかけられたときのことは歌にもしています。
「おかしな男です」といふほかはなし
天皇が和(にこ)やかに父の名を言いませり
今の上皇が「お父さんは齋藤瀏さんですよね。軍人の」と聞いたのに対し、どう答えてよいかわからず、史は「最初は軍人で、おしまいはそうではならなくなって。おかしな男でございます」と答えました。
それをそのまま歌にしています。
もう一首、歌会始の際に、召人として詠んだ歌です。
野の中にすがたゆたけき一樹あり風も月日も枝に抱きて
一樹とは何なのか。
色々含みがあるように思えますが、文字通り北海道の原野の中で人の一生をはるかに超える年月を超えて来た樹木とみたい気がします。
そして最後に紹介するのは、達人の粋に達した史の最晩年の作です。
携帯電話持たず終らむ
死んでからまで便利に呼び出されてたまるか
史は「物語を持った最後の歌人」と呼ばれた人です。
女学校卒業後の2度目の旭川滞在の際、父、瀏を訪ねてきた若山牧水に勧められて短歌の道に進んだこと、この稿に書いた二・二六との深い関わりなどが広く知られているためです。
その歌人は、最後にこうした自在な境地に至っていました。
愛して止まなかった父、瀏や、栗原ら友人のもとに彼女が旅立ったのは、平成14(2002)年4月26日。
93歳のときでした。
もう一人の旭川関係者
さて二・二六事件では、決起した青年将校や軍関係者のほかに、クーデターに関与したとして有罪となった民間人が複数人います。
その中に旭川とつながりのある人物がいます。
彼については断片的な情報しかないのですが、二・二六関係者の中では少し毛色の変わった人物ですので、おまけ的に触れておきます。
その人物とは、無期禁固の判決を受けた亀川哲也。
裁判記録には著述業となっています。
平澤是曠氏の著書「叛徒 2・26事件と北の青年将校たち」では、亀川についてこう書いています。
「亀川哲也は沖縄の生まれで、この年46歳であった。彼は中学校卒業後、台湾総督府専売局書記、会計検査院属官を経て東京逓信局監査係長となり、得意の財政経済問題をひっさげて荒木、真崎、柳川などの高級軍人に近づき、山口一太郎、村中らの青年将校とも交わりを重ね、そこで得た軍関係の情報を政友会の領袖久原房之助らに売り、生活の資としていた。」
補足しますと、亀川は明治24(1891)年に沖縄の宮古島で生まれています。
会計検査院時代は経済学の研究に励み、その後、政治家の経済分野におけるブレーン的な立場にあったようです。
その一方で、二・二六事件の決起将校らが傾倒した国家主義活動に関わり、皇道派の幹部将校に接近するとともに、青年将校のグループとも深い関係を持ちました。
久原房之助(1869−1965)
文中に出てきた久原房之助は、日立グループの基盤となった日立銅山の創設者などとして知られる実業家です。
そして立憲政友会を率いる政治家でもありました。
政財界の黒幕・フィクサーとも呼ばれ、北一輝ら国家主義の活動家に資金を提供したほか、自身も自由主義的な政治体制の改革を目指していました。
亀川との関係は、こうした国家主義活動支援の一環と見られます。
亀川は久原から資金を得る一方、主に軍部における国家主義活動の情報を久原に提供しました。
さらに社会や政治のあり方について、久原と意見を交わす間柄でもあったようです。
二・二六での亀川は、久原からの資金の一部を青年将校グループに流したほか、皇道派幹部を首班とする内閣の実現を目指して政治工作にさかんに動いており、無期禁固という重い判決の理由となりました。
昭和初期の旭川中心部(絵葉書)
なおこの亀川、昭和6〜7年頃に、旭川に一時滞在していたことが分かっています。
実は彼の母親が当時旭川に住んでいて、しばらくそこに身を寄せていたのです。
この頃、すでに久原との関係はできていたためか、彼は旭川の花柳界で豪遊ぶりを見せます。
大金を出してお気に入りの芸者を身請けし、東京に連れて行ったと伝えられています。
元旭川市図書館長の佐藤喜一氏の著書「旭川夜話 その裏面史―」に書かれているエピソードです。
そして二・二六後の彼ですが、終戦に伴う大赦によって釈放されたことが分かっています。
そして昭和50(1975)年、83歳で亡くなっています。




































