前回は明治20年代に行われた旭川のマチ割り=マチの設計図作りについて書きました。
何もない原野に定規で線を引いた設計図に沿って道路などを作り、そこに人を移住させてマチができたというお話でした。
それではそうしてできたマチの姿はどんなものだったのでしょうか。
今回は旭川最初の商店街と初期の銭湯について、さらにこの頃の旭川がまるで開拓期のアメリカ、西部劇の世界のようであったことについて書いてみたいと思います。
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旭川最初の商店街
開拓期にマチができると、最低限必要な店がいくつかあります。
米、味噌、醤油などを扱う食品店。
桶とかざるとかを置く荒物屋。
クワやカマ、鍋釜などを売る金物屋。
そうした金物を作ったり直したりする鍛冶屋。
よそから来る人のための宿や飲食店も必要ですよね。
画像01 曙地区の集落(明治23〜24年頃・旭川市中央図書館蔵)
前回で解説したマチ割りができた直後、明治23(1890)〜24(1891)年頃の旭川です。
詳しく言いますと、いまも地名が残る曙(あけぼの)地区の様子です。
この時点でまだマチ割りで決まった市街予定地の土地の貸下げは始まっていません。
ただ当時忠別太(ちゅうべつぶと)と呼ばれていたこの場所にだけは小さな集落ができていたんです。
曙は夜が明ける頃を指すため、物事の始まりを意味しますよね。
このためこの場所が曙と呼ばれることになったんです。
では、なぜこの場所にまず集落ができたのでしょうか。
この頃、今の旭川と岩見沢を結ぶ道路=上川道路がほぼ開通したんです。
その道を通って、屯田兵村の建設や、網走に向かう北見道路の改修のため、多くの職人や人夫が来始めていたんですね。
すると彼らに食料や品物を提供する商人も増えます。
その場所が上川道路の旭川の起点にあたる忠別太=曙だったんです。
明治24(1891)年当時、この旭川最初の集落=商店街には、店や住宅など40ほどの建物があったと言われています。
この時点で、先程書いた食料品屋や荒物屋、金物屋、鍛冶屋、宿屋はすでにあった事がわかっています。
実はもう2つ、生活には欠かせない店がありましたが、お分かりになるでしょうか。
一つは床屋、もう一つは湯屋=銭湯です。
薬屋や漁に使う鉄砲を売る店も開拓期には欠かせませんが、まだこの時代の曙地区にはありませんでした。
明治期の湯屋=銭湯
少し脇にそれますが、ここで明治期の旭川の湯屋=銭湯について書いておきます。
旭川最初の商店街にあった湯屋は、木製の風呂桶に沸かした湯を入れ、一人ずつ入浴させるという原始的な営業形態だったと思われます。
ただ少し時間が立つと、大勢の人が一度に入浴できる湯屋=銭湯が旭川にも出来ます。
画像02 上川便覧(明治35年)
明治35(1902)年の発刊の「上川便覧」という本です。
この中に当時旭川にあったさまざまな店の数が書いてあります。
最初の商店街が出来た頃から数えますと10年余り経った時点で、すでに旭川駅も開業してマチの中心は駅前の師団通周辺に移っています。
当時旭川にあったのは、会社が5、銀行が2、製造所が8などです。
曙にもあった業種で言いますと、小売商が400余り、旅人宿が69、木賃宿が27、料理店が60、鍛冶工場が49ととんでもなく増えています。
湯屋=銭湯を見ますと21。
当時のマチの規模を考えるとかなりの多さと感じます。
もう少し紹介しますと、売薬=薬屋が14、理髪床=床屋が27。
先程も書いたように、薬屋は医者がまだ少ないので新開地にはどうしても必要です。
床屋の27も、湯屋と同じでかなり多い印象です。
画像03 大正時代の旭川の銭湯(旭川浴場組合100年の歩み)
こちら大正後期の旭川の銭湯です。
入口に旭湯と書かれたのれん的なものがかかっています。
画像04 明治時代の銭湯(東京風俗志)
一方こちらは明治時代の東京の銭湯の内部です。
今で言う脱衣場と浴室の間に仕切りがありません。
浴室も板の間のように見えます。
ただ作りは立派、さすが東京の銭湯です。
でもこれが同じ明治でも旭川の開拓期となるとかなり違ってきます。
画像05 旭川の湯屋についての記事①(北海道毎日新聞・明治31年1月16日)
明治31(1898)年1月の北海道毎日新聞の「旭川雑件」という記事の中に、銭湯のことが書いてあります。
「市中風呂屋の構造甚はなはだ粗末にして破れたしょうじから雪が吹き込む家やら釜が壊れて烟(けむ)りが浴室に舞込む家やらで御客は大こぼし」とあります。
障子の向こうは外だったのでしょうか。
本当ならさぞかし寒かったと思います。
さらに明治20年代の湯屋について書かれた史料がありました。
画像06 奥田千春(1868−1949・牛朱別川切替工事概要)
史料を書いたのは写真の奥田千春。
明治・大正・昭和の3つの時代に渡り、旭川で町長、議長、市長を歴任した人です。
その奥田が郵便局長として旭川にやってきたのは明治26(1893)年のことです。
「事実考」という彼の手記のなかに、旭川に来た当時の湯屋についての記述がありました。
「湯屋の如きも亦一、二軒にして入浴するに差支はなかりしも、道路の除雪全くなく往復困難なりしを以て多数の入浴者なかりし、殊に浴場一面氷りて滑り、危険言ふへからす、蓋(けだ)し家屋の構造不充分なるを以て隙間より襲い来る風の為めに浴者の用ひし湯は皆氷りて、又如何ともするあたわざりし、かかる工合にて折角洗ひたる頭髪も手拭も湯屋の出口にて霜の如く白くなり、次(つい)で針の如く堅く、随分閉口したる事もありき」
子どもの頃、銭湯から帰る間に髪の毛がしばれてしまったというのは経験していますが、風呂屋の中ですでに湯が凍っているというのは聞いたことがありません。
もう一度、明治30年代の話に戻ります。
34(1901)年の北海道毎日にこんな記事がありました。

画像07 旭川の湯屋についての記事②(北海道毎日新聞・明治34年1月15日・2月9日)
左は1月の記事です。
「旭川町一条通三丁目川島という鉱泉湯は、男女混淆の有様にして、湯を替えざること殆んど一週間位に亘り、其不潔云はんかたなく・・・」
右はそのひと月後の記事です。
「三条通七丁目の竹の湯は、非常の不潔にて、衛生などにはいささかも頓着せざるのみならず、何時も男女を混浴させ、浴場取締規則に違反する廉(かど)多々有(たたあり)」
明治になって混浴は禁止されていたのですが、それに反する店があったことが分かります。
なかなか湯を替えないというのは、当時、湯船に水をはるのは大変な労働だったことが背景にあります。
今のように蛇口をひねれば水が出るわけではなく、基本、井戸から水を汲み、それを運んだんですね。
これを何度も繰り返したうえ、さらに釜に木をくべて湯を沸かすわけです。今のように毎日湯を替えるのはかなり難しいというのは容易に想像できます。
といってもさすがに湯を1週間替えないと、このように新聞で叩かれることになります。
西部劇の世界
さてこのように創成期の旭川を調べていて改めて驚くのは、なにもない原野から北海道屈指の植民都市になるまでのスピードの速さです。
主な出来事を年表にしてみました。
<創成期の旭川の動き>
・ 明治22(1889)〜23(1890)年 旭川のマチ割りを策定
・ 23(1890)年 9月 上川郡に旭川など3村設置
・ 24(1891)年 7月 永山兵村に屯田兵が入植
・ 25(1892)年 1月 現旭川市街の貸下げ開始
・ 8月 旭川兵村に屯田兵が入植
・ 29(1896)年 6月 北海道官設鉄道上川線の工事開始
・ 32(1899)年 7月 第七師団の建設工事開始
・ 33(1900)年 8月 旭川村が旭川町に
・ 11月 第七師団が札幌から旭川に移駐
マチ割り(マチの設計図作り)をしてからわずか10年で村から町となり、師団も来て道内有数の都市となっています。
こんなマチは、北海道のなかでも例がありません。
さらにこの時代の旭川、まるで開拓時代のアメリカ、西部劇の世界のようにワタクシには見えます。
理由の一つは、人口の急増の度合いです。
開拓機のアメリカ西部はゴールドラッシュなどによって人口が急増しました。
このうちサンフランシスコ。
1846年には人口200人の小さな開拓地でした。
それがわずか6年で5万6000人の都市となります。
なんと180倍になったわけです。
これに対し、旭川はどうでしょうか。
開村の翌年、明治24(1891)年の旭川の人口は、創成期のサンフランシスコとさほど変わらない約300人でした。
これが9年後、旭川が町になり、第七師団が札幌から旭川に移駐した明治33(1900)年には、約2万3000人になっています。
9年で約80倍。
サンフランシスコの6年で180倍には及びませんが、これもかなりのものですよね。
大きかったのは、やはり陸軍第七(しち)師団の札幌から旭川への移転に伴う人の流入です。
軍人に加え、師団の建設に伴う職人や労働者、商売人などの流入も人口を大幅に押し上げました。
画像08 旭川中心部(明治33年頃・旭川市中央図書館蔵)
画像08は人口が急増した明治30年代の旭川です。
ワタクシがこの頃の旭川を西部劇の世界と思う理由の2つ目は、当時いわゆる弱肉強食の社会傾向が強かったためです。
人口の急増期というのは、どうしてもいわゆるアウトローが幅を利かす、力のあるものがのし上がるという傾向があります。
西部劇にはそうした無法者がよく登場しましたが、この時期の旭川も同じように言ってみれば社会がすさんだ時期でした。
そうした様子が、当時の新聞を見るとよくわかります。
画像09 旭川の飲食店についての記事(北海道毎日新聞・明治33年8月15日)
明治33(1900)年の北海道毎日新聞の記事です。
「当地にはこれまで醜業婦一人もなく、新開地には珍らしいと人も賛め、我も誇る所なりしに、第七師団の建築初(はじ)まりし以来、諸方より労働者続々入り込むと共に、師団通り即ち中嶋共有地の両側に併列せる飲食店は、其数殆ど四五十に及び、今度は倍々増加せんとするの模様あり、随(したがっ)て是等飲食店には、例の白首(しらくび=ごけ)を傭(やとい)置きて、私(ひそ)かに淫を鬻(ひさ)がせるにより、毎月一日、十五日の休日は云ふに及ばず、平素と雖(いえど)も、腹掛股引客の絶ゆることなく、時々醜業婦等(ら)の市街を往来するを見受くるに至れり」
「師団通り即ち中嶋共有地の両側」というのは、石狩川に架かる旭川のシンボル、旭橋のたもとの今の常盤(ときわ)通のことです。
ここは師団の建設工事現場に近いということで、工事関係者にとって便利な場所でした。
工事関係者はほぼ単身の男性。
このため彼らが飲み食いする飲食店が増えたんです。
同じ理由で、白首(しらくび=ごけ)と呼ばれた女性を置いて、売春などの性的サービスをさせる店も増えました。
画像10 第七師団の建設工事(明治30年代・旭川市博物館蔵)
第七師団の建設工事の現場を写した写真です。
工事にあたった労働者は、ピーク時で7〜8千人に上リ、本州から来た人もいました。
「1か月の賃金は25円から40円と比較的高かったが、家族に送金するものは100人のうち4〜5人で、多くのものが稼いだ金を、酒を含む飲食、女遊び、賭博などに使った」と当時の新聞は書いています。
こうした状況も殺伐とした西部劇の世界を連想させます。
画像11 旭川の賭博についての記事(北海道毎日新聞・明治33年10月7日)
こちらは当時の賭博について書いた明治33(1900)年の記事です。
「師団地附近、及び中嶋共有地邊(あたり)にては、近来賭博最も盛んにて、五十圓、百圓といふ勝敗は珍らしからぬ由なるか、何れも其筋の不意打を恐れ、要所要所に見張りを附け置き、警戒に怠りなきゆえ、却々(なかなか)容易には手を下せぬとのこと」
見張りが厳重なので、警察の摘発もなかなか難しかったということですね。
賭博に関しては、それにまつわる暴力沙汰などの記事も目に付きます。
さらにこれも西部劇の世界っぽいエピソードと思ったのが、こちらです。
画像12 上川便覧(明治35年)
銭湯の所で紹介した明治35(1902)年の「上川便覧」です。
先程の商工業の数が書かれたところに「古道具商百二十三」とあります。
古道具商=古物屋が123店というのは、いかにも多いと思っていましたら、新聞記事に理由が書いてありました。
画像13 古物商についての記事(北海道毎日新聞・明治34年1月25日)
明治34(1901)年の北海道毎日の記事です。
「本道各地の失敗者、旭川新開地の有望なるに目を向け、続々入り来(きた)りて彼処此処(あちこち)に散在せり、而して来住者は、何れも無資本にて、徒食の結果、家財道具売り渡す者多きことに因り、二条十三、十四丁目界隈は概ね古道具屋となり・・・」
一旗揚げようと旭川に来たものの、弱肉強食の世界の中でうまく立ち回れなかった人たちが、家財道具一切を古道具屋に売り払って去っていったということですね。
なんとも辛い話です。
さらにもう一つ、西部劇の世界と関係するかは微妙ですが、「上川便覧」でもう一つ多いなあと思う店がありました。
画像14 上川便覧(明治35年)
それがこれ、「売肉百二十一」とあります。
肉屋が121店!
ちょっと多すぎますので、旭川で肉食を提供していた飲食店すべての数ではないかと疑ったのですが、実は33年10月の北海道毎日新聞にも市内の売肉店の数106と書いてあるんです。
いずれにしろこの時期、旭川で急速に肉食が普及していたのは間違いありません。
背景には、第七師団の兵士をはじめ、体を使う仕事をする人たちが大幅に増えたことがあるのではと推測します。
その多くの売肉業者の中で、実は旭川市内で今も続いている店があります。
画像15 現在の三光舎とかつての店舗(左端・大正4年・絵葉書)
三光舎というすき焼きが人気の店です。
画像は今の店舗と別の場所にあった大正4年のころの店舗です。
店のホームページには大正6年創業とありますが、これは飲食店としての創業ではないかと思います。
さきほどの「上川便覧」には、肉の販売店としての三光舎の広告が出ています。
画像16 三光舎の広告(明治35年・上川便覧)
右側のページに「屠牛」、そして「大販売所」として、「旭川町2条通7丁目 三光舎」、「店主、二瓶鐵二」とあります。
ちなみに右のページの下には、旭川屈指の老舗だった小林印舗の広告が載っています。
おわりに
画像17 齋藤史(1909−2002)
大正から昭和初期にかけて旭川で2度暮らした歌人の齋藤史です。
彼女は、大正のはじめ、第七師団に異動した陸軍将校の父、瀏(りゅう)に従って初めて旭川にやって来た時のことをこう語っています。
「旭川は現在のような近代都市ではありませんでした。西部劇の開拓地に似て、軒の低い家が広い道路の両側にしがみつくように並んでいました」(私のなかの歴史6 不死鳥のうた 歌人 齋藤史)
大正のはじめといえば、旭川でも中心部はかなり街並みが広がっていた時期です。
ただ東京生まれの東京育ち、当時6歳の史にはやはり西部劇のマチのような殺風景な姿に見えたのだと思います。
この文章を見つけた時、それまで自分が漠然と抱いていた「西部劇っぽいな」という開拓初期の旭川の印象が肯定されたようで、うれしく思ったのを覚えています。














