縄文後期から古墳時代くらいまでの古代日本史は中高の歴史・大学の歴史学科の授業でどれくらい扱っただろうか?

恐らく邪馬台国の卑弥呼が三国志の魏に使者を送ったとか、大陸から稲作が伝来したとか、大和王権がとかそんなとこだろう。

 

しかし、その期間は約1000年と長いにも関わらず、日本のそして日本人の成り立ちについて詳しく触れられることがない。表向きには科学的根拠に乏しいなどとの理由で(神話などはまさにそうだが)。だから、古代日本史について詳しく解説しよう。そこには今の日本の伝統や日本人とは何かを根本的に揺らがせるものがあるということを。

 

かつて紀元前200年頃、中国大陸・秦の国で独裁者始皇帝が死の恐怖に瀕していた。彼は水銀を呑むなどの危行に走るに至り、政治も暴君を極めていた。そんな始皇帝の下に一人の偉大なる詐欺師が現れる。その男の名は徐福。

徐福は始皇帝を上手く騙くらかし、3000人の男女と武器・五穀の種を与えられ船に乗り海の彼方へと消えて行った。朝鮮半島南部や済州島を経て北九州に伝来しその土地の王となった。そして彼がもたらした農耕技術・製銅技術・戦闘技術が一気に列島各地へと広まって行ったのだ。そして日本は弥生時代を迎えることになったのである。弥生人というのの先祖は彼ら一行であると考えるのが自然であろう。そして、時に戦いをしながらも縄文人たちと同化していったのだろう。弥生時代の始まりである。

 

そんなこんなで1世紀ごろ、九州北部は最も栄えていた。朝鮮半島南部と地理的に近く交易が盛んだったのだろう。かつての故郷への縁か、秦王朝が滅び後漢の時代となった中国にその地の王は使者を出した。皇帝はその国を奴の国と呼んで金印を授けたりした。

だが、九州北部の小国の中から伊都国が台頭して奴国などを支配下に置いて勢力を拡大し始めた。伊都国王の帥升は変わらず中国と関係を結んだが、その支配は揺らぎ倭国大乱が発生してしまう。そして、それが飛び火に飛び火を重ねて東の中国地方・近畿にまで広がってしまう。それが2世紀後半くらいのことだろう。

3世紀初期、この時期までには吉備・出雲・畿内にもある程度の規模の王権が成立していた。恐らくこの頃に畿内に現れた王が天皇家・朝廷のもととなったのだろう。古代天皇のうちはっきりとした記述が見受けられる第10代崇神天皇とされる人物(歴史学的には祟神天皇が実在の可能性がある最初の天皇とされる)がこの頃に現れたのだ。そして、畿内が朝鮮半島と交易があり高い文化レベルを誇っていた出雲に侵略をしかけて併合しいわゆる「出雲の国譲り」伝説となり、吉備の国に対しても優位性を保ち、巨大王権が誕生することになる。また、この時に出雲の民の内、王権から逃れた者が朝鮮半島への亡命を試みてそのまま台風に流されて東北に流れ着いた者たちが蝦夷と呼ばれた地域を打ち立てたのではないかと言う説もある。実際、島根県と東北の方便には似た要素がいくつか見受けられる。

それを見た北九州の王権連合(これを邪馬台国と呼ぶ)は恐れそして卑弥呼を立てた。現代で言えば天気予報士にしてシャーマンという立ち位置であるが、彼女はそれらを駆使して内乱で疲弊した国々をまとめ上げたのだろう。そう彼女は日の巫女であったのだ。そして、中国の強国魏に使者を送り銅鏡などをもらったりしたのだが、その甲斐虚しく、彼女が皆既日食で死ぬと同時に土蜘蛛征伐とばかりに本州の巨大王権からの侵略を受け、滅亡することになったのだ。そして、邪馬台国を吸収して倭の国を大きく和のように治める大和王権がようやく統一を成し遂げたのである。そうして弥生時代は終わりを告げたのである。

これら一連の流れが神武東征の物語・日本武尊の活躍といった形に仕立て上げられて美化されたのだろう。

 

そんなこんなで統一王朝となった大和王権は相変わらず熊襲征伐・東海・北陸への東征など飽くなき膨張戦争を続けながら、かねてより交易があった朝鮮半島南部への侵攻を試みた。恐らく任那あたりは出雲と関わりがあり朝貢関係があっただろうからすぐに併合でき、南西部の百済は九州を経由して下したのだろう。その時に日本が朝鮮半島から古墳の技術を持ち帰ったのだろう。この一連を一人の功績にまとめたのが神功皇后の三韓征伐伝説であろう。

この頃、中国では五胡十六国の長きにわたる戦乱の時代に入り、日本と構う余裕がなくなったことも大きく関係している。しかし、この時期、中国史に日本が関与しなくなったことから文献的資料が一切なく朝廷の成り立ちや日朝関係など重要な部分がまるっきり分からなくなっており「空白の4世紀」とでも言うべき時代に入った。

三韓征伐は新羅を落とすギリギリまでいったところで朝鮮北部の高句麗の介入を招き、倭国が朝鮮半島南部における地位が危うくなって撤退への道を歩み始めることになる。満州で発見された4世紀ごろの広開土王碑の記述を解釈したらこう考えられる。

 

んで、4世紀後半。大和王朝は度重なる征服事業の疲弊により国力が低下した影響でおそらく王朝交代が起こったのだと思う。その期に王権を奪取したのが第十五代応神天皇とされる人物であろう(実在の可能性が高い最初の天皇)。そこから政権の中心地が三輪から河内に移る。騎馬民族征服王朝説が起こったとすればそのタイミングはこの時期と重なる。もしかしたら大和王権の最後の王はヤケクソを起こして高句麗に攻め込んだ後、大惨敗して撤退した奴らが朝鮮半島の協力者や戦乱中国からはぐれてきた部族やら渡来人集団を引き連れて馬に乗ってそのまま倭国に帰ってくるなり荒らしまくって大和王権を乗っ取ったと考えれば説明がつく。この時期まで日本にあまりいなかった馬の遺骨が遺跡から大量出土し始め、古墳の埴輪にも大陸的な武人の姿をした者が見受けられ始めた。

5世紀ごろには大和王権は、南北朝時代になった中国の南宋との交易を開始し、倭の五王によって安定し始めた。五王のうち武は第21代雄略天皇とされ、彼は万葉集の最初の歌を作ったことで知られている。関東から剣が出土し、ワカタケルの名が書かれていたことから実在が確認された。しかし、定年間際の歴史学会の偉い教授が提唱した説をいいかげんな査読で定説に押し通したのではないかとも考える人もいるから断定はできないが。何はともあれ、考古学的に実在が確実な最初の天皇とされている。

そんなこんなで大和政権は二度目の王朝交代を迎えることになる実在が確定している第25代継体天皇が現れる。この系統から現在の天皇家への流れが続いていき朝廷の原型となって飛鳥時代へと向かって行くのだ。

 

とりあえず不確定な古代史はこんな感じで。今回はここまで。物部氏や蘇我氏や仏教と神道の対立といったことは次回、話そうと思う。