ざっくり言うとエヴァの物語は、セカンドインパクトによって世界の人口が半減した世界を舞台に、14歳のシンジ、アスカ、レイという少年少女たちがエヴァンゲリオンに乗って、第三新東京に襲来する「使徒」たちと戦う、というとこだ。

使徒という他者とエヴァが戦うにあたって、「ATフィールド」というバリアが使われているが、このATフィールドは単なるバリアとして使われているのではなく自己と他者の境界線として存在しており、登場人物はこれを「心の壁」と呼ぶ。

20世紀の偉大なフランス人哲学者サルトルは、このような自己と他者の境界線の問題を扱っており、他者によって見られる自己を自己の側から否定し、さらに自己から他者を見返すことで、他者ではない自己を提示している。このような「まなざし」の問題は、日本の実存主義文学に多大な影響を与えた。大江健三郎や安部公房のテクストには、他者に見られること、他者を見ることの問題が想像力豊かに描かれていることからも言えるだろう。このように、「見る」/「見られる」ことの相克に、実存主義の特徴が垣間見える。

もちろん、エヴァにも「まなざし」の問題はあり、エヴァや使徒には目がたくさんあるものがあって、ネタバレになるが旧劇でも、ラストにアスカが眼球を回転させ、シンジに視線を向けて「気持ち悪い」というシーンがある。この「気持ち悪い」という言葉は、サルトルの著書嘔吐と通ずるものがある。自己と他者の相克の問題は、登場人物同士の心理描写や、登場人物間で首を絞めるというような場面で表象として現れたと言えよう。

このように考えると、作中の人類補完計画はATフィールドを消滅させ人類を一元化にさせるものであるが同時に、つまり自己と他者の境界線を取り除く計画になっていることは説明がつく。その人類補完計画は内部から破壊される。

この旧劇では、人類補完計画を起こそうとするゼーレとアスカが戦って破れ、レイが人類の母たるリリスに還り巨大化して人類補完計画が実行されるが、この時、人類は水の中で境界線がなくなったわけだが、最終的に、シンジとアスカは水の外へと打ち上げられ、シンジがアスカの首を絞めて、アスカは「気持ち悪い」と言い放つ。つまり、自己と他者の境界線がなくなった世界が実現されようとしながら、それが最終的にはうまくいかなくなり、自己と他者の相克のある世界に至るまでが描かれているということだ。

このと時、シンジとアスカは新世界のアダムとエヴァとなり、シンジは母に「さようなら」を告げたということだ(エヴァ初号機の核は彼の母であるユイ、リリスの魂であったレイのオリジナルである)。

このように、システムを進行させながらも、そのシステムの矛盾をつくことでシステムを内部から破壊するデリダの「脱構築」が、ここでは行われている。それは、おそらく、人類補完計画を起こそうとしたゲンドウがレイと融合しようとしたとき、レイが「私はあなたじゃないから」と言うときから始まっている。このレイの何ともサルトル的な言葉は、ここから先に人類補完計画が失敗することを予期したような表現だなと思った。巨大化し、自己と他者の境界線がなくなった人類がレイと融合した後に、その巨大化したレイという、人類補完計画の象徴が死をむかえるのは、脱構築そのものである。

 

結論、フランス現代思想は人類一元化の原点である共産主義、いやむしろ空想的社会主義に強い憧憬を抱きながらも結果としてそれが破綻するそのアンビバレンスを抱えたものとして矛盾を孕みながら生きていくことを選んだ。エヴァもそれにならったということだ。