インド哲学、ヒンドゥー教の理論に従えば「創造」「維持」「破壊」は三位一体であり一つのサイクルであるという。
ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァこれらを司る最高神が妖怪人間ベム・ベラ・ベロの如く一つのものから派生したことからも三位一体は教義上の必然であろう。
思うに、このサイクルではまず破壊が先行する。破壊しない限り創造は生まれないということ。
シリコンバレーで言われる「創造的破壊」という概念とは似て非なる。
「創造的破壊」って、新たな効率的な方法が生み出されてから、それと同時に古い非効率的な方法は駆逐されていくという流れで、創造が先にあり、その一連の新陳代謝としての駆逐=破壊されていくという概念。
そうじゃなく、後始末考えず「違う!!」という感性にもより意味があるということをもっと伝えたい。我々は新しいことを始めようという時、今までの考え方や行動様式を踏襲した上で新しいことを始めようとする。土台の古いものを無くさず新しいものを重ねる。
どうすれば「破壊」の価値が学べる?「破壊」は一時的に手放すことに過ぎない。
言い方を変えると、自然の理を信じて無になるために壊す。
そう考えると、現代社会では「破壊」という概念を学ぶ場が少ないです。
「破壊の意味」「破壊の価値」ってなかなか社会で学ぶチャンスはほとんどない。
とにかく「創造性」「創造性」って言われ続けているが、目の前のものの破壊の仕方、手放し方を教えんで創造はやってこない。でも、子どもたちの一部はその価値を生まれながらに知っています。例えば、乳幼児が次のステップにいくために積み木を崩したり、砂山を崩したりすることに快感を覚えるのも、破壊することで起こる進化への感触を捉えているものだと思います。
そんな感性を信じて「破壊」しようとしている子どもたちに寄り添える教育が必要だと思う。学校教育の中心から外れたがる子どもたちは実は王道から逸れてるんじゃなくて、「破壊」の価値を知っているっていう捉え方もできる。創造より一つ前の価値として。
創造だけしかしない子供を作っていいわけがない。
私はここ数年、大人が綺麗に整えたステージに創造性の高い子どもたちを引き上げてきたけれど、実は器用に「創造」に向かう子どもたちだけしか育てちゃ~いけないなとふと思う。
大人が創った土台には古い価値観や思い込み行動様式が埋め込まれています。そこに器用な子供を立てて、「さあ、若い人なりの創造性を活かして羽ばたきなさい!」と言っても、所詮は古い土台なのです。子どもたちに必要なのは、古い土台・古いシステムにまずは疑問を持つ力。そして「破壊してもいいんだ」と思わせる大人の想いの深さだ。
もう少し詳しく調べてみたいのだけど、もしかしたら、いまインドが「創造」を重視される時代に多くの人材を輩出しているのは、宗教的概念でも「破壊」の価値が身近にあるからかもしれない。インド人には破壊の神シヴァが人気だ。それは固定化した階級制度が背景にある反動かもしれないが。
「さあ、新しいことにチャレンジしよう!」
ということの前に、まずは何か破壊しよう!ということを先にもってこないと駄目なのよ。 今までの常識や価値観や制限など。
コロナはグレートリセットだ。
我らが自らが作ってきたものが維持できず壊れるのは少し寂しい気持ち半分、期待感も半分。まだまだ注視しがいがある。