このタイトルは2006年に自死した哲学者、須原一秀が書いた本のタイトルだ。

これは現代思想を扱った本であるが、哲学の教科書ではない。では何か?
「反哲学」が全体に渡って貫かれている暗黒啓蒙の一種だ。
この本によれば、哲学はすでに「溺死」したという。歴史上、「哲学」と呼ばれた運動はすでに終わっており、それは一部の人間にとっては常識だが、大半の人はまだ「哲学」が存在していると思いこんでいる(著者の言葉通りによれば、体は自覚なき肯定主義の時代に突入したというらしい)。だからその誤解を解こうというのだ。
一読した感想は、変な本だということに尽きる。
だから、自分はこの本を、「哲学って要するに何?」「自分と関係あんの?」と感じてる人にすすめたい。

ということで内容の紹介だが、そもそも哲学とは何なのか?
著者は、「思想」と「哲学」を分けることを提案する。
「思想」とは何か?
それは、人々の色々な「ものの考え方」のことである。「思想」は日々の雑談にも、ネットの書き込みにもあふれている。誰だって思想を持っている。それは単なる「ものの考え方」だから、とくに珍しいものではない。

著者は、「思想」を5通りの二元論に分類している。
・個人主義ー全体主義
・結果主義ー心情主義
・科学主義ー神秘主義
・真実主義ーソフトウェア主義
・肯定主義ー否定主義
これは現代に生きている人ならば誰でも「実感」できる思想だという。

「主義」という言葉が大げさに響くなら、「個人主義ー全体主義」を「個人を優先する考えー全体を優先する考え」としてみればいい。「全体」というのも、「国家」だけではない。「家族」や「会社」とすればいい。するとピンとくるはずだ。これは、「自分を優先するか、みんなを優先するか」という昔からある対立に名前をつけたものなのである。

「結果主義ー心情主義」も分かりやすい。「結果が出ないと意味がないよ」と考えるか、「それでも頑張ったことを評価してあげたい」と考えるかの対立である。

「科学主義ー神秘主義」の場合は、「科学がすべてを説明してくれるはずだ」と、「科学で説明しきれない神秘的なものがあるはずだ」の対立だろう。 

「真実主義ーソフトウェア主義」の「ソフトウェア主義」は、「人それぞれだよね、色々と条件も違うんだし」という考え方のことである。SMAPの『セロリ』に歌われた「育ってきた環境が違うから、好き嫌いは否めない」というやつだ。相手と意見が一致しない時、こう考える人は多いのではないか。

「肯定主義ー否定主義」は少し分かりにくい。
須原は、「人間の不合理なところ」を丸ごと肯定することを肯定主義、否定するならば否定主義としている。例えば、人間には暴力的な面もあれば、嫉妬深い面もある。怠惰な面があれば、勤勉な面もある。馬鹿かと思えば、賢明だったりする。そのようなゴチャゴチャしたものを「そのまま肯定する」ことを、須原は「肯定主義」と呼んでいる。
逆に、そういった人間の多様な側面のうち、ある部分を強く否定しようとするならば、「否定主義」ということになる。よって、「暴力は絶対にいけない」とか「不倫は何があっても許されない」という発想は、ここでは否定主義と呼ばれることになる。

以上の5通りの二元論が思想の根幹なのは、誰でも無自覚に採用しているものであるが、同時に、人はその場に応じて、矛盾する「思想」を平気で使っている。例えば、「結果が全て」と豪語する熱血サラリーマンが、小さな娘の描いてくれた稚拙な似顔絵を見て「その気持ちが嬉しい」と涙するように。
ようするに臨機応変にこれら思想は人間に対して作用するのだ。

「思想」に対して「哲学」は何なのか?
哲学は、上記の思想を厳密に学問化したものなのだ。「厳密に学問化」すると何が変わるのか?思想の時のように、平気で矛盾していることはできない。考えの根拠をたずねられて、「なんとなく」と言うことも許されない。それぞれの言葉には、明確な「定義」も必要になるだろう。
途端にハードルが上がるわけである。

「哲学」においては、「結論を急がなくてもいいじゃないか」「考えるプロセス自体が哲学なんだよ」という主張も却下されるべきだと須原は主張している。「哲学」という運動の根幹には、この徹底性があった。それは、対立する様々な「思想」に最終解答を与えることで完全に終わらせてしまおうとする「傲慢なプロジェクト」だったのだ。

哲学者たちはこのプロジェクトを試行錯誤を繰り返しながら行うが、とくだん結果の出ないままに時は過ぎてゆき、それぞれがそれぞれの専門領域に、つまり狭苦しい檻の中に入りこんでしまった。「哲学」は、つまり「真理を求める運動」は死に、現在も生き返っていない。人々は今でも昔と変わらない様々な「思想」を持っているが、それに「最終解答を与えようとする挑戦」は終わったのだ。

このことから、「現代哲学」というのは、どこにも存在しないと言うべきであって、存在するのは「古代からの何の変哲もない十種類の思想」と「それらの相互批判と自己弁護」だけだったということ。
現代が出口のない時代に見えるのは、単に出口から出てしまったからだ。そして、様々な考えが乱立する猥雑で不潔な民主主義を肯定する。

以上を踏まえたこれらが、書名である「現代の全体をとらえる一番大きくて簡単な枠組」なのだ。