日本人の多くは学歴コンプレックスを持っているらしい。
残念ながら日本は資本主義の地獄で、競争&階級社会だからその副作用が弱者にのしかかるのは当然のことなのよ。もっと言えば、「偏差値」というランク付け概念が元凶であり、教育のガン。
誰かが得をすれば誰かが損をする、この経済学でいうところの「利害のゼロサム命題」は商売だけでなく、社会全般に適用される法則ってわけ。
だから、当然、「大切なのは社会に出てからだ」とか言っても、学歴が低いだけで戦うべき社会の土俵にすら立てないこととかもある。就活で説明会が満席だったりESが中身など見られるずに落とされるなんかは勿論、もっといえば出世レースで無能の分際で学閥を盾に勝利するなんかはその最たる例だろう。
自分も学歴コンプレックスは多少持っている。テレビで、金髪でチャラチャラしたゴミみたいな男が「東大生です~~笑 彼女も美人です~~」なんての言ってるの見てすぐ消したことあるし、昔の知人とかで大したことなかったりウザかったりした奴が自分よりいい学校に行ってるのを風の噂で耳にして腹立ったこともある。就活の時だって前述のようなことは経験したし、インターンでバカにされた時 怒鳴り散らして帰ったこともある。
入った学校に対する劣等感の度合いにも、「軽度」のものから「重度」のものまであって、「軽度」のものであれば、世の中はさほど問題とはしないようである。自分も軽度なんだろう。不本意な結果に終わって、受験や第一志望大学に多少のしこりを残していても、その悔しさの反動は入学した大学でベストを尽くそう何かを学ぼう、社会に貢献しようというような方向に向かわせてくれる。
一方で、「重度」の学歴コンプレックスを抱える人達はそういうわけにはいかない。自分の志望していた大学に入学できなかった劣等感で滅茶滅茶になり、(客観的には「良い大学」に入学できていても)自暴自棄になったり、抑うつ状態になったりして、長い間、人生を棒に振ってしまったりする。仮に表面的に社会に適応していても、その裏では常に劣等感に苛まれており、幸せを感じることができないでいる。
世の多くの人々にとっては、「学歴」という、さして重要でないたった一つの尺度に大きく囚われ、自身の人生を台無しにしてしまっている人達の気持ちというものが、いささか理解しがたいものと思われることも多々ある。確かに、年単位に渡る努力が報われなかったのは辛いことであろう。しかし、ただそれだけの理由で、これ程のコンプレックスを抱えて、その後の人生を丸々台無しにしてしまうのはいかがなものか、そう思われることに違いない。
しかし、「重度」の学歴コンプレックスを抱える人達の実際としては、自身の志望している大学に入学できないことは、自らの人生が丸々台無しになることに等しいのである。自身の志望する大学に入学できないことは、今まで必死に築き上げてきた人生における全ての実績が、一瞬にして水の泡となってしまう一大事なのである。学歴コンプレックスを抱える人達にとって、志望大学に入学できないことは、決して大袈裟でなく、死ぬること以上に苦しいことなのである。そして自分自身、何故、「学歴」一つでここまで苦しまなければならないのかを分かっていない人が殆どなのではないかと思う。
重度の学歴コンプレックスを抱いている人は、他の人達よりも「志望校合格」に対する未練が強く、受験失敗が人生に与える影響が大きくなってしまうのだろうか。その答えは、その人の幼少期、子供時代を見つめることで分かってくる。
そういう人は、幼少期に基本的欲求が満たされていないのである。それは承認欲求だ。「自分が誰か(家族・友人・恋人から)とかから無条件に愛されている」という感覚。
これらがなければ、シーソーの端まで昇れば傾き下るように、収入や学歴、社会的地位といった、客観的で、数値化されたステータスを身に付けることで、他者からの承認を得ようとする性向に極端に偏るのである。学業で結果を出さないと、親から「お前なんて見捨てるぞ」と脅されて育つ子供もいる。このような子供も、生まれてより「承認欲求」が満たされておらず、「自分はテストの数値をあげないと存在している価値がない」という感覚を持っている。その上で、親からは日常的に「テストで良い点数を取らなければお前を見捨てる」という圧力を受けている。言葉としてそのように言われなくても、態度で示されることでも子供は傷付く。だから仮に一流大学に入ったりそうでなくとも学歴コンプレックスを持たなかったりしても、自分より学歴が低い者を見下したり、甘んじて学歴信仰を受け入れる。
学歴コンプレックスを抱えるような人達が自身の「学歴」のような数値的なステータスに強迫的なまでに拘る真の理由は、その人にとって「学歴が大事だから」ではなく「自分の存在価値を失いたくないから」である。幼少期から思うような愛情を与えられず、自分の気持ちに寄り添って貰えることもなく、客観的で数値的な尺度でしか自らの存在を認めて貰えなかったという心の傷(トラウマやPTSDという)が、「受験失敗」によって強く自覚されることとなったというのが、学歴コンプレックスの正体なのである。
学歴コンプレックスを解消する為には、よくいう学歴以外のもので取り返すというのは間違い。結局、数値の呪縛から解放されないからだ。ならどうするか?
「自分の存在は価値がない」という感覚を、正しいか間違っているか、根拠があるなしに関わらず全否定することに他ならない。
それは自己否定と刺し違えてでも戦えということだ。
人間の魅力というものは、なにも、客観的な数値によってのみ測られるものではないのである。自分の周囲にいる人々をよく観察することで、それが分かってくる。自分や、その周囲が繋がっている友達や恋人というものは、「何となくこの人といると居心地が良い」とか「何となく価値観が合う、話が合う」といった非常に曖昧で主観的な要素によって繋がっている。人間の言う「好き」という感覚は、「こちらの方がスペックが高いから好き」とか「こちらの方が点数が高いから好き」というものではないのである。まずはそのことに一つ一つ、気が付いていくことである。人間関係は、客観的な数値的指標でのみ決定されるわけではない。その時の縁と、その人の人間性というものが評価されて、人間関係というものが築かれているわけである。そのことに気が付き、存在価値のないはずの自分に何故、人が関わりを持とうとしてくれるのか、そういったことを一つ一つ、分析してみ?それは自分の人間性というものに何らかの魅力があるからに他ならない。つまり自分には、存在するだけの何らかの価値というものがあるということよ。自分の「個性」というものは、ただそこにあるだけで、誰かにとっては価値あるものとして映るのである。この感覚は到底信じられないことであろうが、事実である。
まずはそのことに一つ一つ気が付いて、幼少期からの誤った刷り込みを正していくこと、それが、学歴コンプレックスの根本的な解決に繋がるものと、私は考えている。
客観的な数値的指標によってのみ、自らの存在価値を測ってしまうという癖は、幼少期から長年にわたり刷り込まれてきた癖なので矯正することは容易ではない。しかし、本当の精神的な安定、平穏、人生の充実を手にするためには、「自分の存在に価値はない」というこの誤った刷り込みを地道に、根気強く取り除いていくことが不可欠である。
その地道な試みが上手く花開いた暁には、もう、学歴コンプレックスで悩むようなことはなくなっているだろう。