これからのことを話す前に、それらの2020年以前までの詳細をまず語ろう。
それ以外の文化系団体はサークルや同好会として位置付けられているからあえて文化部としては広義に含めない(ボランティア団体もインカレであったり認可されていなかったり、地域連携センターの管轄下であるから除外する)。
多くの場合、文化部はそれ単体だけではなくEUの如く連携して1つの共同体作っている。私の学校では、文化会と呼ばれるものだ。
文化会は、総会を意思決定機関として起き、各課外活動の責任者会議を上院・第二位責任者会議を下院として置き、事務局・監査委員会を置いた列記とした巨大化した組織集団であった。下院の構成員を実施委員として、共同して新歓・広報を行ったり数多くの行事を作ったり、さらには自らの一年の活動の集大成を披露する学祭にも影響力を持った(学祭については後述)。委員会は下記の通りだ。
・春の宿泊行事
・新歓
・謎のハイキング&スポーツ大会
・夏の宿泊行事
・広報誌作成
このように、行事の中でも二度に渡る宿泊行事があった。春と夏に。
春の合宿は、各部の会員がその年の活動の中核を担う為の意見交換や人脈構築みたいなのが目的で、夏の合宿は新たに入会した一回生たちに協調性や自主性を学ばせて 後期や学祭に向けた友人獲得や思い出を作らせるみたいなものが目的だった。
これらは作成にかなり手間がかかるものであった。寝る間を惜しんで一から企画を考え、授業や課外活動の合間を縫って委員たちで協議し、放課後の活動終了後に責任者たちからの審査を受ける。綿密な計画と苦労により行事は必ず成功するシステムになっていた。
なぜ下手すれば課外活動やバイト・学業より忙しくなるようなめんどくさいものがあったのか。上記に書いた目的は表向きに過ぎない。裏の目標は赤化を防ぐことにあった。つまり、カルトイデオロギーやマルチ商法、麻薬に会員たちが騙されることがないように守る為のものであった。
文化会というEUにとってこれらの行事はNATOであった。
大学生にとって大学生活というのは高校までと違って もしくはそれ以上に自由となる。そのプラットホームにおいて、自由こそ至上命題なのは言うまでもない。そこで必ず現れるのが「自由をはき違えたバカ者」だ。
彼らは公益の敵である。すなわち文化の破壊者だ。会員たちがそうした害悪に変貌する前に手を打ち、害悪になってしまった者は容赦なく淘汰する。
自由をはき違えたバカどもになってしまう奴は、孤独を感じる故に個人主義傾向が強くなりすぎることと自主性が未熟なのに自由へと放り出されるからだ。その反動は、反社会的な集団に利用されることへと向かいやすくする。
大学生は心の奥底に必ず孤独と未熟を抱える。課外活動であれ、バカみたいに酒をあおって性行為をしまくるのもその裏返しだ。
自由を正しく理解し行使することは、自発的な集産共同体によって自主性と協調性を育むことに他ならない。その我々のやり方にはモデルがあった。それはユダヤ教における教義活動の1つである「キブツ(קיבוץ)」だった。
神学は専攻ではないちょっと解釈が難しくなるのと説明が長くなるから、概要はwikipediaを読んで欲しい。その規律についてもユダヤ教の教義を参考にした。十戒律やトーラーは言うまでもなく知っているだろう。我々はラビの如く禁欲的・利他的に最大多数の最大幸福を目指したが、ただ1つ違うのは神を信じるか否かである。
自由は与えられるものではなく、自ら試行錯誤して勝ち取るものであり、それにより社会の安定を図るとする我々の理念は、孤独と未熟を逆手に取ることによって成し遂げられた。
それは学祭に対しても同じことだった。
学校を上げての対内外宣伝そして我々のプロトコルの成果であった学祭は一朝一夕にして誰か一人の意思のもとに成し遂げられたわけではない。
11月の序盤3日間に向けて1年をかけて各団体が集大成を披露・発表・報告するないしは模擬店などで内部留保を稼ぐ為、そして裏方を担う実行委員会も計画・行動する。
実行委員会は執行部の下に15の各局が存在した。詳細は下記に記す通り。
・完全志願制だったPR局(宣伝・会場の受付や案内)とプロコンサート局(著名人の招致や企画、会場警備)
・どこの大学でも話題となるミス・ミスターのコンテストを司るエンターテイメント局(ET)と地域の子どもと関わるとかいうテーマパーク局(TP)
・展示の管轄をする展示局、模擬店の管轄をする模擬局、備品を管轄する庶務局。これらは文化部からの徴兵・志願により成り立つものであった。
・美術部により構成された 学祭の正門などのデザインを担当するアーチ局。放送部によってステージ企画を担ったニューエージ局(NA)。軽音楽部の披露の場を作った野外ライブ局。能楽研究部や歌舞伎部、演劇部からなった演劇局
いずれの部活も文化部である。
・体育部が管轄していた演舞局と交通対策局。
・あまり関わらなかったから詳細はいまいちよく分からなかったが技術局と学術局
このようなものがあった。各々がそれぞれの職責を担い、役割を果たすことにより学祭は成り立っていた。この学祭の委員会も、先に挙げた文化部の行事と似た性質を持つものだったと思う。
ようやく、2020年に時計の針が進む。
新型コロナウイルスの襲来により、全ての課外活動は夏休みに至るまで活動が停止し、再開後も大幅な制限がかかった。また新入生の勧誘は大部分の課外活動で打撃を受け、存続の危機に瀕する団体もある。文化部はこの影響を多いに受け、凋落を露呈することになった。
各課外活動の組織崩壊が起こり出したことが同時に共同体の機能不全を呼び起こすのは必然的だ。ウイルス対策で先にあげた行事や学祭はもちろん中止になって、ノウハウは損なわれつつある。
問題は、2020年に在り方が大きく揺らいで、果たして今年もしくはアフターコロナで新しい存続意義を見出だせるかどうかだ。
それができないなら、いくら御託を並べても無駄だ。共同体は解散してしてしまえ。
求められる価値がなくなれば何故在る必要がある?
いつも言っているが、2019年までを恋しく思わない奴には心がないだろうが、それに戻そうとする奴には脳がない。旧共産圏で俺たちの父母以上の世代はソ連や東ドイツで必死に生きてきてその時代や文化は良かったと半数以上の人々が思っているらしい、でも殆どがソ連共産党やドイツ社会主義統一党による社会体制に戻ることは望んでいない。
時代や状況・環境の変化に応じて求められる役割は変化するわけで、それに合わすか自らそれを変えてしまうかしか前進する道はない。
各文化部を見てると、公益性が存続条件の団体もあれば、逆に無理に公益性を維持しようとしている団体も目立つ。後者はもう悪あがきは見苦しいからサークルへと変貌する時だ。それができないなら本当に滅びるしかないだろう。
前者は、組織構成のスリム化と活動の効率化、旧弊を廃す唯一のチャンスである。自らの公益性を「強さ」と見なすなら、強さを維持する為には無駄を徹底して省くことだ。それが強さの拡大にも繋がるだろう。
コロナ騒動で個人主義傾向が進んでいることを現実として受け止めよ。それにより、さっきも言った多くの人々が心の奥底に抱える孤独と未熟は虚無主義へと変化しだしている。
孤独と未熟の受け皿としての共同体という存続意義を課外活動はこれからも探り続けるはずだ。
散々、行事とか美談めかしているけどそれは結果論であって、それまでの過程を振り替えればそうそう良いものばかりではない。それに大きな声では言えないが、行事や学祭にはOBを含む地域利権が絡んでいる。彼らが弱体化した今、我々は強気に出れるだろう。
文化部の行事も維持するなら、今までの学びと遊びの6:4の比率を変えなければならない。全会員参加必須の研修合宿ないしは集中講義にして、外部コンサルタントに委託するのが賢明だろう。
個人主義を組織の念頭に置く以上は、共同作業のみならず、会員との接し方の心理学的な再検証や人権問題の認知や、ハラスメント対策、リーダーシップ育成、マネジメント的な方法論、SDGsの模索、学祭への取り組みや各団体のやり方・社会貢献についての意見交流といったような面白くない より有益な道へ歩みだすことだ。
流石に学祭は無くすに無くせないだろうな。
無くすメリットよりデメリットが大きい、何より学祭がなくなることにより存続意義を喪う連中が多数いる。
ただいずれにしても、実行委員会のスタッフの数がなければ成り立たないのであって、これまでの召集方法から変えてインターンやサーティフィケイトといった目に見える形でのやり甲斐やメリットを提示しなければ人員は集まらないであろう。
各局も再編しなければならない。
凋落した文化部に徴兵や志願を期待することをせず、PR局を内務省的な組織へと変えて包括するとか。どっかの局を官房的な機構へと進化させて権限の拡大を図るとか。
各部の既得権益となっている局は各々にまかせるべきだ。実際にもうなくなったものもある。
いずれにしろ、執行部に対して学祭に影響を与える文化部の会員を送り込む必要性はあるのではないだろうか。あと、自治会の執行部にもだ。
文化会の下院の委員会構成を変えるなら、
・新歓
・広報誌
・事務局
・学祭復興
が現実的だ。
ただ、これらの文化部や学祭実行委員会の構成員というのはどちらも全学生数の1割に満たない圧倒的少数派である。
そもそもコロナ騒動前から課外活動というのは大学生にとって割に合わないものになっているのだ。サークルや体育部、自治会、ボランティアを含めても全学生の半数に満たない。
金(参加費や飲み代)も自由な時間も捨てて何を得る? やり甲斐か?絆か?そんなもの目に見えないのにどうやって証明する?
性善説など信じない人間にしか公益性は見出だせないんですよ。何に必死になるかそして為したことで歴史の評価に繋がるだろう。