祈祷会      士師記2章「イスラエルを愛される主」    2024.5.22

 モーセに導かれたイスラエルの人々は、エジプトを出て、荒れ野の旅を経て約束の地を目の前にするまでにやって来ました。ここでモーセは死に、次にリーダーとなったのがヨシュアでした。ヨシュアによって導かれたイスラエルの人々は、主が示された約束の地に入って来ました。ここではイスラエルの人々は約束の地を手に入れることと、12部族がくじ引きで土地を分けて住むことをしていくのです。ヨシュアの死後、士師がたてられて、イスラエルの人々を導いていきます。サムエルが登場して、サウル、ダビデ、ソロモンの王が立てられるまで、士師の活躍は続きます。士師とは「さばきつかさ」という意味です。戦争の時は軍事的なリーダー、平時には、政治的宗教的なリーダーとして活躍していきます。

 士師記1~2章は、序章にあたります。ここではヨシュア記の最後の部分と重なる部分が多いです。ヨシュアは最後に、イスラエルの人々に大切なことを話していきました。主はイスラエルを導いてくださったお方であること、その主に従い、主の教えを守ること、主に従わず。主の教えを守らないことになると、主から裁きを受けることをいいます。特に、約束の地に住んでいる先住民と交わってはならないこと、それは先住民の拝んでいる神々を、イスラエルの人々が拝むようになるからということでした。そのヨシュアの教えにも関わらず、約束の地には多くの先住民がいたことをいっています。これが、士師記の時に、イスラエルの人々の苦しみになっていくことになります。

・2:1~5、ボキム(泣く者の意)での出来事
 主はイスラエルの人々に「わたしはあなたたちをエジプトから導き上り、約束の地に入らせ、わたしはあなたたちと交わした契約を決して破棄することはしないと誓いました。あなたたちはこの先住民と契約を結んではならない、先住民の祭壇は取り壊さなければならないといったが、あなたたちはわたしの声に聞き従わなかった。どうして、このようなことをしたのか。だから、わたしは先住民を残す、先住民の神々はあなたたちの罠となっていく」と告げています。聞いたイスラエルの人々は声をあげて泣くのです。イスラエルの人々は、ここで主にいけにえをささげています。ここでも主は、イスラエルの人々が、主に従うことをせず、先住民と交わり、先住民の信じる神々を拝んでいるというのです。

・2:6~23、主に背く世代が興る。
 ヨシュアの死後、ヨシュアの在世中、生き永らえて、主がイスラエルの行われた大いなる御業を見た長老たちは存命中、人々は主に仕えることができたのです。でも、その世代が皆絶えて、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業を知らない別の世代が興っていきます。イスラエルの人々は、主の目に悪と思われることを行います。イスラエルの人々は、主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えていきます。バアルは男神、アシュトレトは女神です。豊穣の神々として、先住民の神々でした。このバアルとアシュトレトとは、イスラエルの人々はずっと悩まされていくことになるのです。

 主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せられます。イスラエルの人々は略奪者から略奪されるままにされ、災いが下り、苦境に立たされることになります。その時に、主は士師たちを立てて、イスラエルの人々を略奪者の手から救い出していきます。でも、イスラエルの人々は士師たちにも耳を傾けず、バアルに恋い慕って、これにひれ伏していきます。主は、イスラエルの人々のために士師を立て、士師と共にいて、その士師の存命中、敵の手から救ってくださったのですが、それは圧迫し迫害する者を前にして、うめくイスラエルの人々を、主が哀れに思われたからです。その士師が死ぬと、人々は先祖よりいっそう堕落して、バアルに従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い思いと頑なな歩みを何一つ断つことはしませんでした。

 このようなイスラエルの人々に対して、怒りに燃え、「この人々はわたしが先祖に命じた契約を破り、わたしの声に耳を傾けなかった。わたしは先住民を追い払うことをしない。」と、いっています。更に、主は「略奪者によってイスラエルの人々を試し、主の道を歩み続けるかを見るためだ」というのです。

 主はイスラエルの人々を神の民として選ばれました。それは、数の少ない民、罪深い民だから選ばれたのでした。主は、イスラエルの人々を導こうとされます。それにも関わらず、イスラエルの人々は、主に対して罪を犯し、反逆し、敵対していこうとします。それでも主は、イスラエルの人々を愛され続けられるのです。士師記の神学というのがあります。イスラエルの人々は、平和の中で、神を離れて、先住民と交わり、先住民の神々であるバアルを拝んでしまいます。罪を犯した人々に対して、主は敵をイスラエルの中に送ります。敵によって、人々は苦しみ、主に助けを求めます。主は士師を送り、人々の危機を救い出してくださいます。それは敵と戦い、勝利するということです。やがて、士師は亡くなっていきます。そうすると、人々は再び、バアルを慕い求めます。すると主は怒り、敵を人々にもとに送ります。すると、人々は敵の攻撃で苦しみ、主に助けを求めます。主は、人々の苦しみを知り、士師を送り、敵と追い出します。このようなサイクルが何度も展開されていきます。

 士師記を通して、考えることは、イスラエルの人々は、主に従うことができないということです。それでも、主は、人々と共に歩んでくださるのです。何度も裏切られます。それでも、主は人々と関わり続けます。主のイスラエルの人々への関りは終ることがありません。主と人々との関りはやがて、新約聖書に入って、イエス・キリストの十字架の死と復活につながっていくことが分かります。主はイスラエルを最後まで愛し続けます。それは、私たち1人1人に対する関りと同じです。

ローマ8:32
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

祈り 神よ、私たちはあなたの愛をどのくらい知っているのでしょうか。イスラエルに対する愛、イエス・キリストを十字架につけるまでの私たちに対する愛をです。何よりも、あなたの愛を知ることができますように導いてください。この願いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                 」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)