礼拝説教     イザヤ43:8~20「神の証人として生きる」   2026.2.15

 おはようございます。今日は愛知西地区の講壇交換礼拝で、名古屋新生教会と瀬戸永泉教会で行うことになりました。安達正樹先生は瀬戸永泉教会へ、私が名古屋新生教会に来ることになりました。どうぞ、よろしくお願いします。私にとってこの講壇交換礼拝はありがたいと思っています。それは、新しい教会での礼拝は新鮮に感じることができるのです。その日だけに味わう特別な時間だと思っています。私は、瀬戸永泉教会に来て7年になります。その前は、神奈川県茅ケ崎市にあります平和学園というところで教務教師をしていました。主に中高生と過ごす日々でした。

 話は変りますが、東日本大震災から15年になろうとしています。皆様はあの時に、どこでどのように過ごされ、どのようだったのでしょうか。神奈川県でも大きな揺れが3分以上続きました。その後、計画停電というのがありました。今では懐かしい思い出です。私は、学校の春休みを利用して、宮城県石巻市にあるひまわり保育園での泥出しのボランティアをすることができました。短い時間でしたが、津波の被害とはどのようなものかを実際に肌で感じることができました。大自然の大きさといいますか、大きな津波の前では何もすることができないと実感しました。どうして、このようなことが起るのかと考えました。神は、時には私たちに大きな試練を与えるのです。それを私たちは受け止めるしかないのです。

 今日の聖書の箇所は、第2イザヤの内容です。バビロン捕囚という大きな出来事がありました。今のイスラエルはどこにあるのか、皆様ご存じだと思います。時々ニュースになっています。ガザでの事を悲しく思います。どうにかできないのか、戦いをやめさせることはできないのかと思いつつ、何の現状も変ってはいません。イスラエルという地は、イスラエルの人々にとって特別な土地でした。神から自分たちに与えられた土地だと信じていました。神から選ばれた特別な民だと信じていたのです。それが、バビロニアの攻撃によって、エルサレムは焼かれ、神殿も破壊されて、多くの人々が奴隷として遠いバビロンの地に連れて行かれてしまったのです。第2イザヤは、バビロンの地で、捕囚となったイスラエルの民に向かって神からの言葉を語ったのです。

イザヤ43:8
引き出せ、目があっても、見えぬ民を。耳があっても、聞こえぬ民を。

 目が合っても、見えぬ民、耳があっても、聞こえぬ民は、イスラエルの人々を指しています。イスラエルの人々は神の民として選ばれました。それは、神の教えを守り、実行していくことが求められたのです。しかし、彼らは神の教えを守らず、偶像を拝み、神を忘れて、自分勝手に歩んでいました。そのようなイスラエルの人々の現状を語っているのです。

イザヤ43:10
わたしの証人はあなたたち、わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ、理解するであろう。わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを。

 イスラエルの人々は、神の民として選ばれながらも自分勝手な道を歩んでいました。神の御心を忘れて、偶像を拝んでいたのです。神の目からすれば、神の民としてはふさわしくない民でした。しかし、神は、イスラエルの人々を、あなたたちはわたしの証人だといいます。神が選んだ神の僕だというのです。ここで大切なことは、イスラエルの人々がどんなに悪いことをしても、神の恵みは変らないということです。神がイスラエルの人々を選ばれたということが大切なのです。神のご意志が大切だというのです。

イザヤ43:16~18
主はこう言われる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方。戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方。初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。

 イスラエルの人々にとっては神の救いは過去にありました。出エジプトの時に起った葦の海の奇跡です。エジプトの地を出たイスラエルの人々は約束の地を目指してその歩みをしていました。彼らの前に葦の海が広がっています。後ろからはエジプト軍が迫って来ています。出口を見い出せなかった人々はパニックになってしまいました。その時に、神はモーセを導いて、目の前の葦の海を2つに分け、渇いた道をつくり、そこを人々は渡りきることができました。後方から迫っていたエジプト軍が海に入った時に、海は元通りになり、エジプト軍は海の中で溺れ全滅してしまいました。神の救いの出来事があったのです。イスラエルの人々は、バビロン捕囚という現状に悲しんでいました。過去にはこのように素晴らしいことが起ったのに今の状況はいかなるものかと思っていました。

イザヤ43:19
見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。

 第2イザヤは、捕囚の地バビロンにいるイスラエルの人々に語るのです。神は、新しいことを行うと。それは今芽生えている。神は荒れ地に道を敷き、砂漠に大河を流れさせると。それは、約束の地イスラエルへの帰還を指しています。希望の言葉です。かつての出エジプトでは、葦の海を2つに分け、乾いた地をつくり、その地を渡ることができました。今度は、砂漠に道を敷いてくださる。砂漠に大河を流れさせる。これは、バビロンの地からエルサレムへの帰還のことをいっています。この第2イザヤの言葉の通りに、イスラエルの人々はエズラ、ネヘミヤの時代に、約束の地に帰って行くことができています。

 神の救いの業を考えていくと、イスラエルの人々が正しい行いとしているから彼らを救い導くというものではなく、実際に、イスラエルの人々は神から離れて、罪の道を歩んでいました。神は多くの預言者を送りながらも、イスラエルの人々は神に立ち返ることをせず、神に反逆し続けたのです。神を忘れて、偶像を拝み、自分勝手な道を歩んでいました。それでも、神は罪深いイスラエルの人々を神の証人だといい、神が選んだ神の僕だといってくださっています。

 バビロン捕囚は、イスラエルの人々にとってとても辛い出来事でした。神から見捨てられた。神から裁かれたという経験をしたのです。でも、そのような辛い経験を通してでなければ、罪深いイスラエルの人々は神のもとに帰ることができなかったのです。平和で幸福な日々の中では、神を求める信仰は生まれて来なかったということもできるでしょう。とても困難で悲しいバビロン捕囚という出来事を通して、神のもとに帰って来ることができたのです。バビロン捕囚は、神からの恵みの業をいうこともできるでしょう。この神の救いの業は続いていきます。それは、イエス・キリストの十字架によって完成していくのです。イスラエルの人々だけでなく、すべての人間は、自分の力で罪を贖う力はありません。自力では、神の救いの恵みに預かることができないのです。

 神の御子であるイエス・キリストが私たちの人間の世界に来てくださり、これはクリスマスの出来事です。そして、エルサレムを目指して歩まれます、それは、十字架への道です。今年は、2月18日の水曜日が、灰の水曜日となります。教会暦では受難節に入っていきます。私たちがどのような状態で当ても、神の救いの御業は変ることはありません。神のご意志として、イエス・キリストの十字架を通して、私たちの救いを完成させてくださるのです。

ヨハネ3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 私たちには神の救いの御業が示されています。そして、この救いの御業を、神は私たちに、神の救いの業を伝えるようにと願っています。私たちは神の救いの証人として生きる使命を持って歩んでいるのです。

祈り 神よ。このように名古屋新生教会の人々と共にあなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。どうぞ、安達正樹牧師の働きを祝福し、守り、導いてください。また、ご家族をも守り、祝福してください。また教会の集っている皆様の上に、そのご家族の上に、神の守りと導きが豊かにありますように。神のみ言葉が豊かに示されて、この名古屋新生教会を通して、神の救いが多くの方々に伝えられていきますように祈ります。この祈りを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。