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「核も戦争も消えぬ今をお叱りください」 父を沖縄戦で亡くした長崎被爆女性の願い 毎日新聞

 7万4000人が犠牲になり、今なお多くの人が原爆症などに苦しむ長崎市への原爆投下から9日で75年となった。被爆者も年を重ね、原爆や戦争の記憶を伝えることは年々難しくなっている。そんな中、太平洋戦争の沖縄戦で新聞記者だった父を亡くし、2カ月後に自身が被爆した永田栄子さん(75)=長崎市=は原爆と沖縄戦に翻弄(ほんろう)された一人として、毎年夏、孫たちに手紙を書き続けている。

◇父は記者、沖縄で従軍取材

 永田さんの父で毎日新聞の記者だった下瀬豊さんは1945年2月、沖縄本島に上陸して沖縄戦線の従軍取材を始めた。長崎市中小島の自宅に妻ミヤ子さんと当時2歳だった長女淑子さん(77)を残していた。ミヤ子さんのおなかには次女の永田さんがいた。

 下瀬さんは敗色が濃くなった45年6月、沖縄を脱出して内地で戦況を伝えるよう軍の特命を受け、当時の摩文仁(まぶに)村(現・糸満市)から船に乗ったまま行方不明に。6月18日に戦死したと認定された。32歳だった。

 永田さんが生まれたのはその8日後の6月26日。当時の長崎市は度々空襲に遭っており、ミヤ子さんは出産した日も生まれたばかりの永田さんを抱いて防空壕(ごう)に避難。翌日、ふらふらになって帰り着いた。この時はまだ夫の死を知る由もなかった。

 ◇原爆投下、母が見た「この世の地獄」

 8月9日午前11時2分、ミヤ子さんが昼食の用意をしようと台所に立った時、爆心地から約4キロ離れた中小島もごう音と爆風に襲われた。ミヤ子さんはとっさに生後約1カ月半の永田さんに、永田さんの祖母は淑子さんに覆いかぶさった。

 4人は無事だったが、近くの防空壕に避難すると永田さんが泣いたため、ミヤ子さんは周りに迷惑をかけまいと永田さんを連れて家に戻った。道中、ミヤ子さんは大けがをした人や皮膚が焼けただれた人と何度もすれ違った。「この世の地獄だった」。生前、ミヤ子さんは永田さんに語った。

 ◇差別を恐れた祖母 女手一つで育ててくれた母

 永田さんは祖母に「被爆したことを人に言ってはいけない。言えば差別される」と言い聞かされて育った。戦後、被爆者には「短命だ」といった偏見と差別がつきまとった時期があった。永田さんは被爆者としての差別体験はないが「祖母は私たちが嫁に行けなかったらと心配していた。片親だというだけでも差別があったから」と振り返る。

 ミヤ子さんは洋裁や仲居をしながら女手一つで娘たちを育てた。永田さんは70年、25歳で夫勝義さん(80)と結婚。子、孫に恵まれた。「あの人は死んでいない。きっとどこかにいる」と夫の帰りを終生待ち続けたミヤ子さんにも寄り添い、沖縄戦で犠牲になった新聞関係14人の名が刻まれた那覇市の「戦没新聞人の碑」などを一緒に訪れた。

 「母の生前の嘆きや苦労が忘れられない」と永田さん。その思いから、両親ばかりか祖父母の代も戦争を知らない孫の世代に自分の知り得る限りを伝えなければ、と駆り立てられた。

 ◇孫には毎年メッセージ「分かるまで、嫌がられても書く」

 娘はオーストラリア人男性と結婚し、一家で豪州にいる。永田さんは中学生と小学生の孫3人に3年前から毎年夏、メッセージを送っている。「沖縄戦では母親が子を背負って敵に向かって行った。子供が手りゅう弾を手にしていたんだ」。そうつづっても孫たちにはどこまで伝わっているだろうか。「悲惨さが届いているのか分からないけれど、分かるまで、嫌がられても毎年書くつもり」

 9日は勝義さんと自宅で黙とうをささげる。「犠牲者の皆さんには『安らかにお眠りください』ではなく、75年たっても核も戦争もなくならない現状をお叱りくださいと伝えたい。力をお貸しください、と」【松村真友】

最終更新:8/9(日) 3:37
毎日新聞
https://news.yahoo.co.jp/articles/e11f4f50ec88a4631b029463fec5c8289a809e07 より)
 

 

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