地球から三億キロ、小惑星《ケリドウェン》の周回軌道に浮かぶ観測船《イソラ》。船内には、ただ一人の宇宙飛行士・佐々木葵がいた。

葵の任務は、ケリドウェン内部に存在するという「異常重力源」の調査だった。そして、そこには未知のエネルギー反応があり、重力波の周期的な揺らぎから人工的な構造体が存在するのではないかと期待されていた。

「宇宙に生命体の痕跡があるかもしれない」そう言って彼女は地球を発った。

出発して3年でケリドウェンの周回軌道に入り、そして観測を開始して1年以上の日が経過した今も、観測結果はすべて「異常なし」の一点張り。数値は微細に揺れているが、それがノイズなのか、あるいは本当に何かがいる証なのか、判断できない。

午前六時、地球時間の起床。ただし、時間の感覚はほとんどない。人工音声が無機質に告げる。「おはようございます。今日も異常はありません」

彼女は応える。「了解、異常なし」

異常がないことが異常に思えるほど、なんの変化もない。

報告を聞き終えて船窓に近づく。そこに浮かぶのは、深い青をたたえた小惑星ケリドウェン。まるで眠っている巨人の瞳のように、静かに光っている。

地球との交信は途絶えていた。それは重力波による通信障害である可能性が高く、周回軌道で調査している間は復旧は見込めない。葵は報告書を、障害の復旧後にまとめて送信することにしていた。


そのときだった。

「こちら、観測船アストレア。予定より早く軌道に到着しました。補給物資と観測機器を搬入します」

無線通信に突如、そんな言葉が飛び込んできた。通信の発信源は近距離、だがレーダーには何も映っていない。

「誰?」

葵は即座に応じた。「アストレアが到着するのは、まだ先のはず。予定より早いのはなぜ? レーダーにも感知されていない。識別信号を送って」

だが返ってきたのは、まるで会話を無視したような返答だった。

「佐々木さん、地球へ帰還する日程は決まりましたか?娘さんが今日もメッセージを残しています。『ママ、かえってきてね』って」

その声に、葵の体が硬直する。懐かしすぎる、痛いほどに。

「やめて・・・娘の存在を私に意識させないで!」

「なぜですか?これは、あなたが最も求めているものです。あなた自身の記憶によって生成された《対話支援モジュール》なのです」

彼女は思い出した。このミッションは、深宇宙での長期単独滞在になるため、心理的安定のために擬似人格AIが搭載されていた。記憶と情動から構築された支援人格。だが、その起動条件は『精神異常の兆候』だったはず。

「私は・・・異常なんかじゃない」

そう言いかけて、手が震えていることに気づく。視界の端で、ケリドウェンがまた微かに揺らいだ気がした。その揺れに、ノイズのような音が重なる。

『ママ、さわっちゃダメだよ。そのほし、さわると、にんげんじゃなくなるよ』

「!!!!!」

船内に響いたその声に、葵は背筋を凍らせた。それは過去に聞いたことのない、記憶には存在しない“娘の声”だった。

「どういうこと? 今のは・・・あの子じゃない。誰?」

無線が途切れ、機器が一斉に再起動を始めた。船の灯が一瞬消えて、再び点灯する。

通信ログを見ると、直前の音声データには『再生履歴なし』とだけ表示されていた。

「幻覚? でも、あの言葉はいったい・・・」

彼女はもう一度、窓の向こうの惑星を見た。青い光が、今までよりずっとはっきりと瞬いている。中心部に何かがある。何かが、こちらを見ている。

思い出す。地球を発つ前、極秘扱いのミッション補足情報に、こう記されていた。

「ケリドウェン内部に存在する重力場は、一定以上の精神負荷に反応し、その人の“記憶”を物質化・干渉する可能性あり」

“干渉”。つまり・・・・・。

『ママ、ちかづいちゃ、ダメ』

今度は、娘の姿が船窓の外に浮かんだ。船外服も、装備もつけず、ただ宙に浮かんでこちらに向かって叫んでいる。

「あの子は地球にいるはず。こんなことが、あるわけない!」


そう、わかっていた。でも、同時に受け入れてしまっている自分がいた。

これは、惑星ケリドウェンの”観測”ではない。惑星ケリドウェンに”観測されている”のだと。観測者であるはずの自分が、観測され、試され、記憶を読み取られ、操作されている。

葵は身を引き、操縦盤を見つめた。地球帰還の座標入力ボタンを、入力しようとする指が震える。

「私が帰る場所は、まだ残ってるのかな」

そのとき、無線がもう一度、静かに告げた。

「地球は、すでに応答する機能を有していません。あなたは今、地球という惑星で唯一“生存する観測対象”です」

心が一瞬、空白になった。同時に今日の記憶が薄れてゆく。ぼやけた感覚の中で葵は、ゆっくりと船窓に顔を近づけた。娘の姿が、鏡のように自分と重なって、泣くように笑っていた。そして意識を失うように横になる。


そして地球時間六時には、”異常が無い”と私を起こす声がするのだ。

 

駅の地下モールに奇妙な店があると聞いたのは、職場の後輩である高田の何気ない一言だった。

 

「買い物が、全部“未来価格”で決まるらしいっすよ」

 

未来価格?そんな言葉は聞いたことがない。けれどその響きに妙な引っかかりを覚えて、俺はその日の帰り道、地下三階のフロアを探し歩いていた。

 

見つけた店は、「Predict Mart(プリディクト・マート)」という名前の店だった。看板の下には、小さな文字でこう書かれている。

 

『あなたの未来の行動に基づき、価格を最適化します』

 

一歩店に入ると空気が変わった。冷蔵棚の前に立つと、商品の値札がピクリと動く。缶コーヒーは180円、次の瞬間に220円。ペットボトルの水は100円のままだが、手に取ったとたんに90円になった。

 

「これは、どういうことだ?」

 

すると、隣にいた中年の男が笑いながら言った。

 

「ここはな、自分の“行動傾向”をもとに価格が変わる店なんだよ。AIがあんたの購買パターンをどこからともなく学習しててな。“たぶん買う”と思った商品は高く“迷ってる”やつは安くなる。人間の非合理を利用してるってわけさ」

 

俺はまじまじと値札を見つめた。たしかに普段よく買うスナック菓子は高めに設定されている。一方で、少し気になるけど手が出なかった高級チョコレートは通常の半額以下。

 

「これって操作されてるってことですか?」

 

「逆さ。操作されてるのは、もともと俺たちの脳だ。『損したくない』とか『もったいない』って心理が先にある。ここのAIは、それを計算して値段を変えてくる。たとえば・・・」

 

男は言いながら、棚のすみにあるキャンディを指さした。

 

「それ、最初200円。でも3回目に見たときだけ80円になる。だから“今、買わなきゃ損”って気になるんだよ」

 

行動の方向性を強制せず、そっと押す。大学の経済学講義で聞いたことがある。

 

店を出ると、俺の手には水とチョコレートと、ついでに買ったクーポンつきのスナック。会計は普段の倍近くになっていた。

 

翌週、俺はまたその店を訪れていた。

 

今度はなんとなく勝手が分かる。気づけば不要な買い物を避けようと、理性で挑むようになっていた。しかしながらAIも学習している。俺の“合理性”を予測し、その裏をかくように値札を操作してくる。

 

試しに、絶対に買わないと決めていた健康サプリの前に立った。3秒、5秒、7秒……値札が、ぐっと下がった。定価の三分の一。しかも『本日限定』と赤字が踊る。

 

「うまいことやるな」

 

そうつぶやいたときには、もう手に取っていた。買わなければ損、いや、これまで考えた時間がもったいない。つぎ込んだ努力や時間が判断を歪める。

 

そのとき、スマートフォンに通知が入った。

 

『あなたの“購入傾向”が他の顧客に影響を与えています。本日あなたの選択が、12名の購買行動を変化させました』

 

知らぬうちに、俺は誰かの“未来”をも変えていたらしい。

 

 

数ヶ月が経ち、俺はもう「Predict Mart」の常連だ。毎週金曜、仕事帰りに立ち寄るのが習慣になっていた。もはやAIの“価格”に抵抗するゲームのような感覚で、買うか否かを競っている。

 

だが、ある日、変化が訪れた。

 

いつもと同じように入店しようとしたとき、自動ドアの前で足が止まった。そこに、新たな表示が浮かんでいたのだ。

 

『あなたの選択履歴により、この店舗の“未来価値”が低下しています。この先も利用を希望されますか? YES/NO』

 

スマホに目をやると、そこにも同じ文言が表示されていた。まるで自分の非合理さが、他者の“最適化”を妨げていると言わんばかりに。

 

俺はしばらくドアの前に立ち尽くしていた。

 

たしかにこの店で『得』をしたこともある。けれど『損を避けよう』として選んだ結果、何度も余計な出費をしたこともある。欲望をなだめ、合理を振りかざし、それでも結局は“感情”が勝っていた。

 

やがて、俺はゆっくりドアを離れた。

 

帰り道、ふと思う。いくら未来を予測されようと、自分の行動は自分で決めている・・・はずだ。けれど、それすらも“そう思わされている”だけかもしれない。

 

「Predict Mart」は、今日も地下三階で誰かの選択を試している。その未来が、どれほど“合理的”であるかを確かめるために。

 

 

舞台袖の埃っぽい暗がりに、僕は今日も立っている。出番はない。配られた台本には「村人C(台詞なし)」と書かれている。それでも僕は、袖で息を殺して舞台を見つめている。舞台の一言一句、どの役者が唱えるかも把握しながら。

7年目。

小劇団に所属してからの月日だ。バイトで夜を埋め、オーディションに落ちて、エキストラで死体を演じて、深夜の駅で台詞をぶつぶつ呟いて、それでは名は売れない。演じる場所は増えない。

逆に、何者でもない自分が増えていく。

「君、違う仕事を探したほうがいいんじゃない?」

バイト先の先輩が言った。わかってる。わかってるんだ。だけど、演じることだけは、手放したくなかった。それ以外の人生が思いつかない。他人の人生を生きられる瞬間が、僕の喜びだったから。

「明日の公演の主役がインフルで倒れた」

公演前日の夜、劇団の演出家が皆の前でそう言った。僕は反射的に「代役、やります」と言った。けれど演出家は首を横に振った。

「悪いけど、君には荷が重い」

「稽古なら全部、見てきました」

「それと演じられることは、別だよ」

それでも食い下がった。プライドを噛み殺して、頼み込んだ。

「一度だけでいいから。稽古を見てください」

数秒の沈黙のあと、演出家は深いため息をついた。

「明日、朝イチで稽古場へ来い」

その夜は眠れなかった。何度も鏡の前で何度も自分の顔を確かめた。これは役者の顔だろうか。それとも、夢にしがみつく滑稽な亡霊だろうか。

翌朝。劇場の冷たい床を踏みしめ、僕は演出家の前で一人芝居を始めた。全てを出してやり切った。魂をすり減らして。終わったとき、手も膝も震えていた。

演出家は黙ったままタバコに火をつけた。

「今日の夜、本番でそれをやってみろ」


夜、公演の直前に『主演変更』の貼り紙が出された。来場者のざわめき。スタッフの緊張。そして僕の胸の鼓動は、皮膚を突き破って舞台に飛び出しそうだった。

幕が上がる。

照明が当たる。僕は舞台の中央に立っていた。目を背ける観客はいない。僕の台詞ひとつで、空気が震える。

あの瞬間、とんでもなく冷静で思考回路はクリアだったが、僕は、僕ではなかった。

終演。

観客席に一拍の静寂が訪れたあと、割れんばかりの拍手が襲ってきた。目の奥が焼けるように熱かった。舞台袖で、仲間たちが無言で握手をしてくれた。

演出家は言った。

「お前、なんでずっとその牙を隠していたんだ」

「隠していたわけじゃなくて、選ばれなかったんです」


翌日、劇団の公式サイトに、主演が病気で交代した話が小さく載った。新聞にもネットにも名前は出なかった。でも、口コミが少しずつ広がっていった。

「昨日の代役、あいつすごかった」

「名前は知らないけど、心を持っていかれた」

そんな言葉が、まるで魔法のように僕の現実を変え始めた。

一週間後、小さな劇団の演出家からメールが届いた。

「あの舞台を観客席で観ていました。山田さんにうちの次の作品に出演をお願いしたいです」

やっと、名前で呼ばれた。

アンダースタディ(代役)ではなく、役者として。


僕は思った。名前がない役でも、魂を込めて演じてきたことが、ようやく誰かの目に映ったのだと。

7年かかった。僕は今日も舞台で生きている。

スポットライトの中で、自分の生き方をはじめてちゃんと見つめている。

 

ジムの照明は、どうしてこうも容赦がないのか。鏡に映る自分の顔は汗と歪みに満ちて、まるで壊れかけた彫刻のようだ。

デッドリフトでハムストリングスが泣いている。ベンチプレスでは鉄の塊が、僕の両側で無言の重みを主張する。もう限界かもしれない、と脳が囁く。それはさっきも、さっきのさっきも、同じ言葉を繰り返している。

けれど限界というのは、意志の薄皮一枚で伸びるものだと僕は少しずつ学んできた。初めてダンベルを持ったあの日、10キロが絶望的に重かった。あれから2年。いまは20キロを片手で扱うようになったけれど、辛さは減らない。不思議なことに、どれだけ慣れても『あと一回』はやっぱりきつい。

「ラスト、行こうか」

隣で声をかけるのは、筋トレ仲間の清水。僕よりずっと大きな身体をしていて、無駄な言葉は吐かない実直なタイプだ。彼の存在はありがたい。重さに負けそうなとき、黙って補助に入ってくれる。信頼というより、ただそこに在る岩のような感じ。余計な鼓舞をせず、でも絶対に逃げさせてはくれない。

僕はうなずき、レップに挑んだ。

 思考が焼ける。

 背中が燃える。

 腕が震える。

しかし鉄は持ち上がる。わずかに。ほんのわずかに。

呼吸が止まりそうになる。その刹那、

「ナイス」

清水の手が鉄を支え、そっとラックに戻した。

終わった。

それだけのことなのに、僕の中に毎回湧き上がるものがある。誇れる記録でもなければ、世界を変えるような達成でもない。ただただ、昨日より少しだけ『伸びた』。それだけの実感がじんわりと胸に広がっていく。

思えば、筋トレは報われにくい行為だ。誰も、今日のスクワットを称えてはくれない。明日、劇的に体が大きくなるわけではない。何なら、鏡に映る自分はいつもと変わらないようにさえ思える。けれど、日々の積み重ねに意味があるのだ。

仕事で褒められなくても、恋がうまくいかなくても、SNSで誰からもリアクションが返ってこなくても、自分の中に蓄積された経験だけは、間違いなくここにある。

「来週は、2.5キロ足そう」

清水が言う。

僕もつられて笑う。

この嬉しさは、体験した人にしかわからないんだ。

ジムの外は、まだ夕暮れの色をしていた。風が少しだけ涼しく感じ、街のざわめきも心地よい。イヤホンを耳に差し込み帰路につく。プロテインの甘い後味が、喉の奥にまだ残っている。

人は、何のために鍛えるのだろう。誰かに褒められたいから?理想の体を目指すから?健康のため?

もちろん、それらもあるだろう。でも僕にとっては『続けられる自分』を証明することが大きい。

逃げ出すこともできた。何度も挫折しそうになった。でも僕は、少なくとも今日も逃げなかった。明日の自分を裏切らないために、今日の自分が踏みとどまった。それだけでいいじゃないか。

ふと、道端のガラスに映った自分の輪郭が、どこか凛として見えた気がした。気のせいかもしれない。でも、それでもいい。

蒲田の路地裏で小さくガッツポーズした。そう、思える夜が、今日、たしかにあったのだ。

 

 

駅前の商店街を抜けた先に、小さな雑貨屋がある。名前は〈つきのかけら〉。白く塗られた木の看板が風に揺れていた。今日は彼の誕生日。私はその店の扉の前で小さく深呼吸をする。

プレゼントってどうしてこんなに難しいんだろう。相手の好み、使い勝手、サプライズ、メッセージ、渡すタイミング。どれも大事で、どれか一つでもずれると台無しになってしまうのだ。だけど同時に、こんなに楽しい悩みは、きっと他にはない。

店の中には、手のひらサイズの雑貨がぎっしり並んでいた。ガラスのペーパーウェイト、革のブックカバー、真鍮のボールペン。世界中から集めたような、少し風変わりなものが並んでいる。私はふわふわと店内を漂う。

彼は私が選んだもので喜んでくれるだろうか。

ふと、棚の下の方にあった小箱に目がとまる。それは木製の小さなオルゴールで、箱を空けると『世界に一つだけの花』が流れた。懐かしい音。心がくすぐられる。

中には小さなメモスペースがあった。

『音楽に、言葉も添えて贈れます』

そう書かれたカードが入っていた。

これだ、と思った。

派手なものじゃなく、でもさりげなくて、ちょっとロマンチックだから彼にはぴったり。

私は包み紙を選ぶのにも時間をかけた。落ち着いたグレーの紙に、淡い水色のリボンで結んでもらう。

レジで「お誕生日ですか?」と聞かれ、「はい」と答えると、店員さんが「素敵な一日になりますように」と笑顔でこたえてくれた。

外に出ると、夕陽がまるでカーテンみたいに道を照らしていた。私は包みを抱えて帰り道を歩く。

帰ってから、あのメモスペースに何を書こうか。「これからもよろしくね」じゃ味気ないし、「あなたが好きです」じゃ青くさい。でも、このドキドキを少しでも言葉にしたい。

私は心の中で言葉を転がしながら歩いた。

夜、部屋の中は照明を落として、テーブルの上に小さなケーキを置く。

彼が帰ってきてすぐ「誕生日おめでとう」と、席に座るように促して、プレゼントを渡した。彼はちょっと驚いた顔をしてから、少し照れたように「ありがとう」と言った。

「開けてみて」

彼がリボンをほどくのを見ているだけで、私はもう胸がいっぱいだった。

オルゴールを見て喜ぶ彼。蓋を開けると小さな音を奏でた。メモスペースには、悩みに悩んで書いた一文。

「あなたの時間のなかに、私の音を加えてくれたら嬉しいです」

彼はメモを読んで、目を閉じた。そして、ふだんは滅多にしないことをした。

彼の手が、私の手を包んでいた。そのぬくもりが、あまりにもやさしくて、私はそれだけで胸の奥が満たされていくのを感じた。

「すごく、いいね」

彼がそう言ったあと、しばらく私たちは言葉を交わさなかった。言わなくても、伝わることがある。そんな時間だった。オルゴールの音が、ひとつ、またひとつと、夜の静けさに溶けていく。

彼が、私を見つめる。その瞳は、どこか戸惑いと照れを含んでいたけれど、でも確かな意思を含んでいて、私は自然とうなずいていた。

ケーキにはまだ手をつけていなかったけれど、それはもう、今夜の中心ではなかった。

私たちは、ゆっくりと立ち上がり、灯りを落とした部屋の中、隣の部屋へと移動した。言葉はないけれど、すべてがそこにあった。

彼の指が私の頬にふれ、髪をすくい、肩にそっと触れたとき、私は目を閉じた。

不思議だった。

こんなにも静かなのに、心臓の音だけが、世界でいちばんはっきりと響いていた。

重なる体温。吐息が混じり、まぶたが熱を帯びていく。彼の動きは、私の意思を確かめるようにゆっくりで、まるでオルゴールの旋律に合わせているようだった。

私は、この時間を永遠に感じていたいと思った。何も飾らず、何もごまかさず、ただ彼と同じ音のなかにいる夜を。

シーツに包まれて彼の頬に触れながら、私はぽつりと呟いた。

「プレゼント、喜んでくれてよかった」

私は彼の胸に顔をうずめて、小さく笑った。そしてオルゴールの音が完全に途切れたあとも、私たちはその余韻のなかで、今度は生々しい音に包まれて、何度も何度も、確かめ合った。

月は雲の向こうで光り、プレゼントの包みはテーブルの片隅で静かに佇んでいた。


世界でいちばんやわらかく、あたたかい夜。ふたりの物語はこれからもゆっくりと続いてゆく。