商店街のはずれ、古本屋と八百屋の間に「影屋」という小さな看板が掲げられた店がある。くすんだ暖簾、昔ながらの裸電球、そして何より、店の前を通るたびに妙な涼しさを背中に感じる。
誰が見ても怪しい雰囲気で、見て見ぬ振りをして通り過ぎる。しかし、私は気付いてしまったのだ。店の入り口に貼られた紙に。
『影、買い取ります。状態不問』
影を買い取る?状態不問?意味が分からなかった。だが、仕事に疲れ果てていた私は、気の迷いもあったのだろう。妙なチャレンジ精神に火がついてしまった。
暖簾をくぐると、店内には棚のような物は一つもなく、壁に異様な模様が並んでいる。よく見ると、そこには人1人分の影、鳥の影、木々の影、コップの影まで。蛍光灯に照らされて黒い模様が壁に貼りついている。
「いらっしゃい」
店の奥から店主が現れた。七十代くらいの細身の男で、声はかすれているが不思議とよく響いて聞こえた。
「影を買い取るって、本当ですか」
「ええ。本当ですよ。あなたの影は、悪くない状態に見えます」
男は私の足元を指差した。私は本能的に一歩引いた。蛍光灯に照らされて作り出された私の影はいつも通り、ただ黒く床に伸びている。
「どうするんです?買い取ってどう使うんです?」
「影には、持ち主の“重さ”が宿るんです」
「重さ?」
「悩み、後悔、恥、怒り、罪、そういう人の心の底に沈んだものが、影には滲みます。だから欲しがる人もいるのです」
誰がそんなものを欲しがるのか。店主は答えなかった。ただ、店の奥をひとつ指さした。その壁には、小さな影が見えた。子どもの影だ。丸くて、小さくて。
「これは?」
「亡くなった子の影。親御さんが“記憶の形”として欲しがったのです。生きていた時の影も、影屋なら保存できます」
私は背筋に冷たいものを感じた。
「売りたいのですか?買いたいのですか?」
店主の静かに声を掛けてくる。私は驚いた。買うという発想はなかった。
「買えるんですか?」
「もちろん。影は“他人の人生の一部”ですからね」
棚を見ると、人の影には全て番号札がついていた。どれも黒いはずなのに、なんとなく雰囲気が違う。重い影、軽い影、揺れている影、歪んでいる影。そのとき、ひとつの影が目に留まった。柔らかく、優しく、少しだけ揺らいでいる。
番号札に「#0147」とある。どこか温かい影だった。
「それに惹かれますか?」
店主の声が背後からした。
「なんとなく。見てると落ち着くというか」
「その影の持ち主は、自分の置かれた状況を“もう背負いきれない”と言って手放していきました。とても優しい人でしたよ。人の痛みに敏感すぎて、自分の影が重すぎてしまったのでしょう」
私は影に手を伸ばした。すると影は、まるで呼吸するようにふわりと揺れた。
店主は言った。
「影はね、買った人の胸の奥に入り込みます。持ち主が感じていたものが、伝わってくることがあるかもしれません。それが良いか悪いか。きっとあなた次第です」
私は思わず手を引っ込めた。
「だったら、影を売る人は?」
「売った人は、軽くなります。少しだけ。背負っていた影を手放すわけですから」
私は黙り込んだ。気づけば、自分の影を見下ろしていた。黒い。それだけなのに、妙に重たく見えた。会社のストレス、家族の問題、将来の不安。曖昧で形にならない“重さ”が、影の底に沈んでいる。
店主は穏やかに言った。
「もし売れば、あなたは少し楽になるでしょう。ただし、影のない人間は、人としての魅力は半減することになるでしょう。。だって軽くなるということは、空虚になるということでもある」
影のない人生。
「やめます」
気づいたらそう言っていた。店主はうなずく。
「賢明ですね。影は、人生の“縮図”です。それは、歩んできた足跡ですから」
私は深呼吸をして店を出た。夕日が傾き、長い影が足元から伸びる。その影は、いつもと同じく重苦しかった。でも、不思議と前よりも親しみを感じた。影が、私に『共に生きよう』と語りかけているように感じた。