3年前の初夏頃、母は、亡くなりました。
最後は悪性リンパ腫でした…

今から40年ぐらい前母は、多発性嚢胞腎と何かの病気で入退院を繰り返す日々でした。

兄弟は、兄がいて
幼い時に離婚をしてすぐに再婚して
義理の父親と4人暮らし
兄に嚢胞は、無く遺伝したのは自分だけ😣

母親の兄弟は、姉と弟の3人で母は、真ん中
母親と弟さんにも多発性嚢胞腎が遺伝していた。(弟さんは、透析せずに姉から腎臓をもらって移植した方)今では、元気‼️

母親は、楽天家でどんな時もポジティブ😆
冗談が好きで話好き!
幼い時は、家族で寝る時間が過ぎてもたわいもない話をよくしていた
最後は、母親が「はぃ!おしまい 寝なさい」と言うまでよくお喋りしていた。

小学生の頃から母は入退院を繰り返す日々だから自分達で料理や洗濯もできるようになった
🏥お見舞いにも行ったりしてもいつも笑顔で辛い顔などなかった記憶があります。

(あ!手術後は、かなり痛がっていましたが😆)

退院して帰ってくれば、仕事をすぐに始めて

また悪化して入院するの繰り返しの日々で入院のたびに死んじゃうのかと心配していましたが、必ず退院して帰って来るから
母親は、一生死なない不死身の人だと亡くなる日まで思っていた。

母親の多発性嚢胞腎の闘病は、記憶しているだけですが
当時、腎臓両方ダメになり1個を取る手術をしたと思います。
手術時に立ち会い、医師が取った腎臓を見せていただいた記憶があります(水膨れが沢山ありかなりデカかった)😵
その後、透析したと思います。透析を始める為に
シャントを作って帰って来た時も痛い顔一つしないで「左腕に大事な物を入れて来たから左腕は、触っちゃダメよ」と気楽に言っていたのを覚えています。

その後
透析を数年していたが体がもたず母親の親(おばあちゃん)から腎臓の提供をうけ移植手術をしたと記憶しています。
辛く長い闘病生活だったはずだが
弱音一つ吐かずに
自分達には、病気の事を多く語らず心配をかけないようにしていた人でした。

亡くなった後に親戚のおじさんから
「おかあさんは、移植後、患者会を立ち上げて

副会長を勤めて色々講演したりして多発性嚢胞腎、腎臓移植の経験を多くの方に広め頑張ったんだよ」と聞かされて
ビックリ😦しました‼️

大人になって家を出てしまい
しばらく実家には帰らない日々だった為
数年母親の情報は、途絶えていたから
亡くなった後に聞かされて
そうだったんだ…と🤥
今になってもっと色々話しておけば良かったと思っています。

また数年実家を離れている時に、
脳動脈瘤を開頭手術でしたらしく兄が付き添いをしたと後から聞かされた
母親は、「あんた〜実家忘れたと思ったから連絡しなかった」とまたまた、いつもの気楽な冗談で話されました😣

そんな母親でしたが
最後は、長年通院していた(母の移植手術をしてくださった先生がいる)東京の大きな病院で亡くなりました。

亡くなる朝方、病院から連絡があり
血圧、脈拍が落ちているのですぐ来てくださいと言われすぐに駆けつけた時には、意識がない状態で血圧を上げる点滴を打たれ酸素を最大限に流されている状態で延命治療されていました。
数時間後、兄が到着
医者と話
「全ての管を抜いてやってくれ」と兄が言い
この数分後、血圧も下がり心臓も止まり帰らぬ人になりました😭

ずっと子供の頃から入退院を繰り返していつも退院してきたから
今回も退院すると思ってました
が…やはり人間誰しも、死ぬ時が来るんだと

一旦、体に刺さっている管を抜く為ベットごと病室を出て行き
戻って来た時には、顔に白い布が
かかっていたのを見た瞬間💧

涙が😭止まらず、声さえ出ず
お医者さんや看護師さん達に「今までありがとうございました」とも言えずひたすら号泣してしまいました。

享年70歳でした。

今、母と同じ多発性嚢胞腎

母が移植や透析した地元の病院に通院することに決めました。学生時代、母の通院やお見舞いに何度も来た場所

診察待ちでロビーに座っていると自然と昔を思い出して涙が出そうに💧どこかの扉を開ければお母さんがそこにいるような…


母親のようには、できないだろうけど
自分の経験を少しでも伝えられるように
自分も強く生きなきゃって思っています。


痛がりMAXなのに〜😩