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等々力で想う学生のブログ(blog)

日々の学び、気づきのストックの場。



自分がより充実した日々を送るためのブログ。

昨日社会人の方との飲み会に、今年上京した後輩を誘った。

すごくびっくりしたようで、素直な後輩は、飲み会後

「びっくりしました」って言ってた 笑


そりゃそうだ。それくらい大学というのはいままでになく、世界が広がるところだ。その理由は自由な事。特に自宅外の場合は、今まででは考えられない時間のつかい方が可能だ。それをするかどうかは人次第。

終了後後輩からのメールで「まだ消化できてないけど、時間は無駄に出来ないと分かりました」とあった。

それだけわかれば十分かもと思い、後輩がまた1つモチベーションを上げて行ってくれる事に、感動した。

僕も1年半前はそうだったな。2年前はゲーマーだったけど 笑


今まではどこに行っても、先輩方ばかりで、その空気に触れるだけで得れるものは一杯だった。もちろん今もそうだが、完全な受動であった昔より、もっと能動的に働きかける方に回る事は学ぶ事が多い。

自分の行動もそうなっている。

受動的に学ぶ場に行く機会がほぼ0になり、やりとりを通した場に行く事が圧倒的に多い。

人の行動はやはり全てつながっていて、直近の行動を見れば、自分の悩んでいる事や、本質が見えてくると少し前に気がついた。

行動と心って一致してる。というか一致しないと不自然な自分になる。不自然さを嫌う僕は、行動が有る意味素直になっているのかも。

一歩一歩行こう。
昨年お世話になった、講師の方が1つ下の学年を教えに大学に来ていた。

毎週授業後にスライドレクチャーと飲み会をして色々と普段聞けないような事を聞いていた。

僕に取っては建築というものの位置付けが変わっていると思ったが、むしろ自分としては共感し、幅を持った話に毎回ワクワクした。

そして、今年も、授業は受けてはいないが、そのレクチャーや飲み会に参加させてもらった。


ちょっと悲しい話になるが、その飲み会に行く途中に、同期の仲間に「お前そんな余裕あるの?」と言われた事だ。

あぁ。

僕ら建築学科の学生は常に設計製図と言う、終わりない課題に取り組んでいる。

もちろん現在もそれを抱えながら生活している訳だが、それを理由にというか、それさえやっていれば良いと考えている人、或いは、それしか時間的にできないと思っている人が多すぎると思う。今に始まった事ではないが・・・。

僕は、そういう理由と言うのは、そもそもかっこわるいし、視界が狭すぎると思っている。愚痴の様に、飲み会に来ていた先輩にそのことをどう思うか聞いてみ ると、その先輩も同じような事を考えていた。先輩は「プロフェッショナルという逃げ」という言葉を使っていたが、言語化が上手だと思った。

こういう一瞬矛盾に感じるような言葉で言いたい事を現す事は、とても重要なスキルだと思う。

それはさておき・・・

プロフェッショナル。はたして、専門だけやっていて、本当のプロフェッショナルになる事は出来るのだろうか。僕の答えは否だ。

なぜなら、僕の前提として、その専門性が「社会でどう作用し、どう影響をして、どう変化させたか。」それが重要だと思っている。そのため、プロフェッショ ナルというのは、大衆のためにあるものでなければ意味が無い。「専門家のための専門」というのがこの世には多々起こっているのではないだろうか。横断的な 広い知識が有り、一曲しか見えていないプロフェッショナルとも話が出来る。そういった人材が必要だと考えている。

このあたりは、考え方が良く変わって行く自分としてはめずらしく、1年の頃から変わらず抱いていた疑問の1つだ。


ただ、そうやって僕の考えているプロフェッショナルを目指している人が多ければ多いほど、真の意味(僕が考える)でプロフェッショナルというものの価値は高くなって行くと思う。
今日は友人に頼まれた手伝いを。

事務作業でとても効率が悪いものなので特に何も得れるものがないはずでした。しかし世の中は不思議なものです。一緒に作業した社会人の方が、アメリカ留学経験があるかたでした。今まさにそれは興味が有る事なので、本当に色々とお聞きする事が出来ました。しかももし留学するなら色々人を紹介してくれると。

本当にありがたいです。

話のなかで興味深かったアメリカの仕事とか学校に対する考え。

仕事で残業しないのは、「仕事は収入に対する対価」であるから

よく勉強するのは「アメリカは学歴社会で、良い成績または実力をつけて、自分の価値を高める必要が有るから」

だと、おっしゃっていた。(自分の解釈もいれてます)


それと比べると日本人はよくわからない。

ただ文化が異なるのは事実。「仕事というものを生き甲斐とする」のが日本っぽさかもしれません。これについては正直リアリティが無いつまり家庭を持った事が無いし、そこまで考えがいたって無いのでこのあたりにしておきます。。。


それにしても人生は不思議です。

アメリカへどういう形でいつ行くかを考えていると、その経験をした人に会うなんて。

本当に感謝です。
今自分は、具体的な何かと言うよりも、抽象的なものに興味が有るらしい。

大学院を調べてみたり、そういった本を、今までも読んでいたが、それ以上に調べてみたり。

うちの大学の宗教社会学の教授が唯一師と仰ぐ方の講義を受けれる事を知り興奮したり。

なんか。そういう方向への興味がとても強くなってる。


結構リアリストというか、成果とかそういうものが見える場所でずっと過ごしてきたが、なんかそうではなく、かなり抽象的な部分、つまり、skillではなくideaの部分への興味が肥大化してるのを自分の行動から感じている。

ああ。なんかむずがゆい。
今の興味分野の1つである、宗教、その中でもユダヤ教関連の本を読んでいた。

V.E.フランクル っていう「夜と霧」っていうのを書いた、有名な精神学者がいるのだが、彼もユダヤ人。

彼はアウシュビッツで強制収容をされ、その時の気持ちをつづっている。


人間とか実現とか、そういったものに投影してみる事が出来る。

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ぼろぐつにつっこんだ傷だらけの足の痛みに泣かんばかりになりながら、わたしは極寒のなか、氷のような向かい風をついて、長い行列を創って収容所から作業現場までの数キロの道のりをよろめき歩いていた。
(中略)
来る日も来る日も、そして時々刻々、思考のすべてを挙げてこんな問いにさいなまれねばならないというむごたらしい重圧に、わたしはとっくに反吐が出そうになっていた。そこで、わたしはトリックを弄した。突然、わたしは皓々と明かりがともり、暖房の効いた豪華な大ホールの演台に立っていた。私の前には坐り心地のいいシートにおさまった、熱心に耳を傾ける聴衆。そして、わたしは語るのだ。講演のテーマは、なんと、強制収容所の心理学。今わたしをこれほど苦しめうちひしいでいる全ては客観化され、学問という一段高いところから観察され、描写される・・・・・・このトリックのおかげで、わたしはこの状況に、現在とその苦しみにどこか超然としていられ、それらをまるでもう過去のもののように見なす事ができ、わたしをわたしの苦しみともども、私自身がおこなう興味深い心理学研究の対象とすることができたのだ。

         池田香代子訳 「夜と霧」 123~125ページ みすず書房 
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そして実際に彼は、生き残り、140を超える大学で講義をしたのだ。



コレを読んだとき、背筋がピンとした。

自分の1つの仮定が、帰納的証明の完了を告げてもいいのではと思った。

自分の経験則と、これだけ世界で名を轟かせた偉大な方の経験。

それを並列するのはとてもじゃないけど、申し訳なく出来ない。

状況が違いすぎる。

ただそんな状況が違うのにも関わらず、結局一緒に見える。

少なくとも僕には。

これはあまり話せないかも。

たぶん、なめてると思われるだろう。

僕はかなり本気だけど、なめてると思う方の気持ちも十分分かる。

理解できるし、僕もそんな奴がいたら、「こいつはなめてやがる。」

って思うだろう。

だから、こころに閉まっておこうと思ったが、それにはもったいない。

だから感じ取れる人に、感じてほしいと思った。