りつこさんの命を救った赤い屋根と靖子ママ。
赤い屋根で、りつこさんと靖子ママから当時のお話しを聞かせていただき、
その貴い繋がりをどのように書こうかと思っていました。

そしたら、ふっと
りつこさんのブログ『アイビーの独り言』が心に浮かびました。
りつこさんの大切な想いは、
りつこさん自身が書かれた言葉でそのままお伝えしようと思いました。

ですので今回は、
りつこさんのブログのいくつかの記事の文章を繋げてつくりました。
りつこさんの想いがつまったこの記事が、
今、希望を失われた方たちの何よりの寄り添いになるよう心から願っています。

【アイビーの独り言】加藤りつこさんのブログはこちらからどうぞ。



1995年1月17日午前5時46分。阪神淡路大震災発生。
かけがえのない息子の短い生涯は閉じられた。

閉じられた人生の隣には、慟哭の日々を歩き始める者がいる。
奈落の闇にうめき声を染み込ませ、
明かりを求めるより、もっと深い闇を求めた。

この地球(ほし)に生を受けた息子は、
21年と27日を駆け足ではあったが濃密に生き抜いた。
そしてあの日、彼は忽然とこの地球(ほし)から姿を消した。

息子の亡骸をまのあたりにしてさえ、死を受け入れることができず、
悶絶の末、茫然自失の時は流れた。



そんな状況下で、私の体の機能も低下していた。
苦しい思い出として消えないのが
急性の記憶喪失のような障害だった。
息子の声が思い出せなかったのだ。
会いたくて話したくて半狂乱の世界をさまよった。
そんなある日、息子の声が私の記憶の襞に蘇った。

『赤い屋根という喫茶店を探して行ってごらん。』
懐かしく、愛しい声だった・・・

矢も楯もたまらず私は妹の運転する車に乗り、
『赤い屋根』という喫茶店を探しに出かけた。

息子の通った広島県立安古市高校の近くにその喫茶店は在った。
私たちは、逸る気持を押さえることも出来ないほど心は昴り奮えていた。

石の階段を上り、二階の木枠のドアを開けた。
その時店内から聴こえてきた雪の舞う空を連想させるようなピアノ曲
ジョージ・ウィンストンの『サンクスギビング』が静かに流れていた。


突然、妹が嗚咽を漏らし始めた。
聞けば、この曲は当時NHKテレビ震災犠牲者死亡リストの
BGMとして深夜流れていたという。

息子が教えてくれた『赤い屋根』は、
音楽の共時態によって、更に強く私の心を惹きつけた。
あの日深く出会った『赤い屋根』と靖子ママに、私の心は救われた。

息子が亡くなる1年9ヶ月前に電話で教えてくれていた《赤い屋根》という喫茶店。
私が初めてこの喫茶店を訪ねたのは、息子が亡くなって1か月後のことでした。



私の命を救ってくれた”赤い屋根” という喫茶店は、
広島市安佐南区毘沙門台の小高い丘の上に建っています。

この喫茶店は、1979年5月3日にオープンした喫茶店で、
店主である河手靖子さんの分身のようなお店です。

決してお客様に媚びることもしないし、極度の謙遜もしない。
いつどのような時も静かに凛と立っています。

独りで泣ける場所。泣いてもママは黙して語らず・・・
でも奥の深い深い所でしっかり寄り添っていてくれる・・・



私のために用意してくれた私だけのコーヒーカップに注がれたコーヒーには、
シュガー代わりにショッパイ涙・・・

私のカップの隣には、もう一つカップを置いて 
「彼と一緒に・・・」 と
湯気のたつ芳ばしく香るコーヒーを注いでくれたママの深い想いに、
孤独な私は思いっきり泣きました。
ママは何も言わず一緒に涙を流してくれて冷え切った私の心を溶かしてくれました。

そして私は、この地球(ほし)に再びあの子の影を見たのです。
来る日も来る日も哀しくて苦しくて、
心身ともに潰れてしまいそうな日々に
そっと寄り添ってくれた ”赤い屋根” があったから、
私は地球(ここ)にいることができました。



亡くなって3年後の1998年、
私は 《365日の誕生花》 の存在を知りました。

息子のお誕生日は12月20日。
調べてみると、
なんと!! 彼の誕生花は 《アイビー》 だったのです。

とてもとても驚きました。
この赤い屋根の白い壁には、
アイビーの蔦が這わせてあり、アイビーの館だったのですから・・・・・。

花言葉をママが調べてくれました。

それが・・・・・
《死んでも離れない》



今、私は人の幸せを心から願い、喜べる心を神さまからいただきました。

苦しみ抜いた歳月で、出会いをいただいた人々、物事にはすべてに意味があり、
私が試される場であったと思っています。

苦行ではありましたが、
それを超えた処には大きな宝物がありました。

哀しみは拭い去ることはできませんが、哀しみを喜びに替える心が備わりました。
「幸せ」 を感じる瞬間も多くなりました。

赤い屋根で足跡を踏み合った見知らぬ人々のお蔭で、
自分を見つめ直すことができました。

それも、すべて、赤い屋根という小さな宇宙船がそこにあったから・・・



これからも赤い屋根が凛とそこに在るためにも
靖子ママが元気でいてくれますように・・・
赤い屋根を訪ねることを、
息子は遺言のように告げて逝ってしまいましたが、
それは私に、『生きろ!』 というメッセージだったような気がします。

赤い屋根とママとの出会いがなかったら・・・・・
当時は常に 「死」 の方向しか向いていなかった私。

今ここにある自分の命を見つめるたび、赤い屋根を想い、
ママと天国の息子に「ありがとう」 と呟きます。



掲載写真は、すべてりつこさんのブログからお借りしました。