6月のHAPPY交流会は、
「ヒロシマが生んだ 平和を照らすアーティスト・田中稔子の決意」と題し、
日本を代表する壁面七宝アーティストであり被爆者でもある田中稔子さんをゲストにお迎えします。
田中さんの作品に対する想いや平和活動についてお話をうかがいながら、
皆さんと共に人間とは?愛とは?平和とは?を語り合う優しい時間を過ごしましょう。
田中さんは、6歳(小学校1年生)の時、爆心地から2・3キロの地点で被爆しました。
しかし驚くべきことに、そのわずか1週間前まで、
爆心地にほど近い所(今の原爆資料館近く)に住んでおられたそうです。
田中さんと1週間前まで共に学んだ同級生は、もちろん全員亡くなられました。
あの夏の日、神様に尊い命を守られた田中稔子さん。
その後、何を思われ、何を願われ、生きてこられたのでしょうか?
それではここで、田中稔子さんのご紹介をさせていただきます。
こちらのサイトで田中さんのことをわかりやすく紹介されています。
【ヒロシマウィメンズハーモニー 壁面七宝作家 田中稔子さん】
http://hfm.jp/blog/w-harmony/2014/01/131.html
田中さんご自身のHPはこちらです。
【田中稔子の七宝らいぶ】
http://www.toshikotanaka.com/
ギャラリーのページで作品もご覧いただけるようになっています。
田中さんが被爆体験を語り始められたのは、2008年からです。
2007年、ピースボートの船に乗られたことが転機になられたそうです。
そのとき、南米で出会った政府要人にこう言われたそうです。
「被爆者のあなたが語らず、誰があの日を語るのか。」
そして、子どもたちに同じ思いをさせないためにも話そう、と決められたのでした。
【『この人』ことしの広島市の平和宣言に被爆体験談が採用された 田中稔子さん】
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=34359
2011年5月、ニューヨークの高校生を前に被爆体験を話されたときに
その年の3月に起きた福島原発事故についても語られました。
日本人が過去を学ばず、ヒバクシャを今もつくり続けている福島原発。
ご自分たちが被爆体験を語ってこなかったから、
そうなってしまったのだと責任を感じておられたのです。
でも忘れて生きなければ将来を考えることができなかった、
そのトラウマから一生逃げることはできない、とも話されています。
それでも、作品の中にこっそりと核を拒否するメッセージを入れて、
ご自分の心を癒してこられたのです。
そして、最後にこの言葉で締めくくられました。
「平和な世界は、爆弾も放射能も降ってこないきれいな青空が
若い人の将来に広がっていることだと思います。」
【ヒバクシャ・ストーリーズ】
http://www.hibakushastories.org/jp-about-hibakusha-stories/
そして今年3月までピースボートに乗船され、こう訴えられました。
「私はヒバクシャとして、もうヒバクシャは作って欲しくないんです。」
「皆さんに、特に若い方にお願いがあります。
これから世界に親しい友人を作ってください。
国籍や人種を越えて、その“違い”を認め、共存する道を選んで欲しい」
【第86回クルーズレポート-ピースボートステーション】
http://www.pbcruise.jp/sp/report/86th/onboard/69.html
「ヒロシマが生んだ 平和を照らすアーティスト・田中稔子の決意」と題し、
日本を代表する壁面七宝アーティストであり被爆者でもある田中稔子さんをゲストにお迎えします。
田中さんの作品に対する想いや平和活動についてお話をうかがいながら、
皆さんと共に人間とは?愛とは?平和とは?を語り合う優しい時間を過ごしましょう。
田中さんは、6歳(小学校1年生)の時、爆心地から2・3キロの地点で被爆しました。
しかし驚くべきことに、そのわずか1週間前まで、
爆心地にほど近い所(今の原爆資料館近く)に住んでおられたそうです。
田中さんと1週間前まで共に学んだ同級生は、もちろん全員亡くなられました。
あの夏の日、神様に尊い命を守られた田中稔子さん。
その後、何を思われ、何を願われ、生きてこられたのでしょうか?
それではここで、田中稔子さんのご紹介をさせていただきます。
こちらのサイトで田中さんのことをわかりやすく紹介されています。
【ヒロシマウィメンズハーモニー 壁面七宝作家 田中稔子さん】http://hfm.jp/blog/w-harmony/2014/01/131.html
田中さんご自身のHPはこちらです。
【田中稔子の七宝らいぶ】http://www.toshikotanaka.com/
ギャラリーのページで作品もご覧いただけるようになっています。
田中さんが被爆体験を語り始められたのは、2008年からです。2007年、ピースボートの船に乗られたことが転機になられたそうです。
そのとき、南米で出会った政府要人にこう言われたそうです。
「被爆者のあなたが語らず、誰があの日を語るのか。」
そして、子どもたちに同じ思いをさせないためにも話そう、と決められたのでした。
【『この人』ことしの広島市の平和宣言に被爆体験談が採用された 田中稔子さん】http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=34359
2011年5月、ニューヨークの高校生を前に被爆体験を話されたときにその年の3月に起きた福島原発事故についても語られました。
日本人が過去を学ばず、ヒバクシャを今もつくり続けている福島原発。
ご自分たちが被爆体験を語ってこなかったから、
そうなってしまったのだと責任を感じておられたのです。
でも忘れて生きなければ将来を考えることができなかった、
そのトラウマから一生逃げることはできない、とも話されています。
それでも、作品の中にこっそりと核を拒否するメッセージを入れて、
ご自分の心を癒してこられたのです。
そして、最後にこの言葉で締めくくられました。
「平和な世界は、爆弾も放射能も降ってこないきれいな青空が
若い人の将来に広がっていることだと思います。」
【ヒバクシャ・ストーリーズ】http://www.hibakushastories.org/jp-about-hibakusha-stories/
そして今年3月までピースボートに乗船され、こう訴えられました。「私はヒバクシャとして、もうヒバクシャは作って欲しくないんです。」
「皆さんに、特に若い方にお願いがあります。
これから世界に親しい友人を作ってください。
国籍や人種を越えて、その“違い”を認め、共存する道を選んで欲しい」
【第86回クルーズレポート-ピースボートステーション】http://www.pbcruise.jp/sp/report/86th/onboard/69.html


