永井 隆 博士のことを人に話しても、「誰?何した人?」と聞かれます。$あったまりんちゃい ~ 陽の光を浴びた言葉たち
こちらのサイトを読んでいただけたら、
ご理解いただけると思います。

永井隆博士の人生と長崎との出会い
http://base.mng.nias.ac.jp/k15/Nagai.html


永井隆記念館
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/peace
/japanese/abm/insti/nagai/index.html#about





右の写真は原爆で亡くなられた奥さまのために
半年間喪に服された永井博士の写真です。




昭和20年、長崎医科大学助教授・物理的療法科部長であった永井博士は、
長年の放射線研究による被曝で白血病と診断され、余命3年の宣告を受けていました。(37歳)

そして8月9日、長崎に原爆が落とされたとき、
爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被爆しました。

そのとき右側頭動脈が切断されるほどの重傷を負いながらも、傷口に布で巻くだけで、
懸命に被爆者の救護に当たられました。

その間、血が止まらず、二度も昏睡状態に陥りました。
その後、原爆の影響による原子病を発症し、寝たきりの生活を余儀なくされます。

でも永井博士は自らの肉体を原子病の研究に捧げられる希望を見出します。
そして人類が二度と戦争を起こさぬようにと願い、たくさんの著書を残されました。

そして昭和26年に博士は亡くなられました。



私もこれまで「この子を残して」・「如己堂随筆」・「花咲く丘」・「長崎の鐘」・「私たちは長崎にいた」を読みました。

まだまだこれからも永井博士の著書を読みたいと思いますし、今年はできれば長崎に行きたいと思っています。

永井博士と直接お話することは不可能ですが、
博士がこの世に残された平和への祈り、心を感じてきたいと思います。

そして今回は、その著書を読んで特に印象に残ったところを抜粋してご紹介したいと思います。



~「私たちは長崎にいた」<ひび>より~

長崎で原子爆弾第三号が、一九四五年八月九日に爆発しました。

そのとき爆心地にできた一面の「ひび」は、

四年後の今日に至るも、まだ消えないで残っています。

「ひび」とは、隣人お互いの間の愛に生じた、細かい割れ目です。

かすかな不信です。

 ―― これこそ、原子爆弾が私たち長崎市民に加えた破壊の中で、

もっともむごいものでありました。




 私たちの生活は、四年後の今日では恵まれたものです。
 
 私たちの表情は明るく、隣人は互いに愛し合って、楽しく暮らしています。

 しかし、……この町の住民の心のつながりには、目に見えない「ひび」が入っています。



 なぜ、隣人の間に「ひび」が入ったのでしょうか?
 原爆の本当の恐ろしさとは何なのでしょうか?




~「私たちは長崎にいた」<原子戦争がもし起これば>より~

原子戦争の場合は、

それが爆裂した所は、広い範囲が一瞬にして粉みじんに砕かれ焼かれるために、

これまでの戦争とはまったく性質の違った心理を、市民にもたせます。

―― それは、「完全な利己主義者でなければ生き残ることができない」という心であります。



~「私たちは長崎にいた」<ひび>より~

原子爆弾の下では、死の手に捕らえられて救いを求め叫ぶ友を見捨て、

すがりつく隣人の手を振り離して逃げた者しか生き残らなかったのです。

言い換えると、原子爆弾の下で生き残った者は、利己主義者だけであります。

―― この事実を、私たち生き残った者は、自分で知っています。

そしてつねに、自分で苦しんでいます。


$あったまりんちゃい ~ 陽の光を浴びた言葉たち







































~たっちゃんさんのブログ 『ヒロシマ平和公園の四季』 【永井 隆 博士の祈り】より~
http://ameblo.jp/tachan1941/entry-11234248569.html




~「如己堂随筆」<朝の鐘>より~

原子爆弾によって私たちが受けた被害のうちでもっとも大きなものは、

家を失ったことでもなく、財産を焼かれたことでもなく、

多くの血のつながる者や友を殺されたことでもなく、

体が不自由になったり、病気になって働けなくなったことでもなく、

実にそれは私自身の魂の醜さをまざまざと見せつけられ、

また隣の人たちの醜さをもはっきり見たことによる、

人間に対する信頼を失ったことであります。



原子爆弾の火の中からかろうじて抜け出した当時は、

この点をうすうす感じてはいたのでありますが、

なにぶんにも失ったものがあまりにも大きかったために、

原子爆弾の物を壊す力に目がくらんで、

魂を壊されたことについてはそんなに深く考えなかったことでありました。



ところが、年月がたつにつれて、

物がなくなったり死んだりしたときの悲しみや恐れはしだいに薄れてゆき、

反対に魂に受けた被害のほうは、いよいよ明らかになって、私を苦しめるのです。




原爆の真の恐ろしさに気づき、苦しみ続けた永井博士は、
世界へ向けて、未来へ向けて、
今でも平和を祈り、叫び続けておられるような気がしました。

改めて私たちは、
過ちを繰り返してはならぬ、決して繰り返してはならぬと思いました。


$あったまりんちゃい ~ 陽の光を浴びた言葉たち
~たっちゃんさんのブログ 『ヒロシマ平和公園の四季』 【長崎の鐘(模型)】より~
http://ameblo.jp/tachan1941/entry-11188346954.html




~「長崎の鐘」より~

人類よ、戦争を計画してくれるな。

原子爆弾というものが存在する以上、戦争は人類の自殺行為にしかならないのだ。

戦争をやめてただ愛の掟に従って相互に助け合い、平和に生きてくれ。