先日私は、ある方から原爆の火にまつわる2つの話を聞きました。
私は広島にずっと住んでいながら、原爆の火のことを全然知りませんでした。

その話を聞き、自分でも調べました。
そして思いました。
私はこの話を自分が感動するために聞かされたのではなく、
この話を人に伝えるために聞かされたのだと……。

今日8月15日は終戦記念日です。
私は記事の掲載をなんとかこの日に間に合わせたかったので、
うまくまとまってはいませんが、心を込めて2つのお話と詩をみなさんにお伝えしようと思います。


$あったまりんちゃい ~ 陽の光を浴びた言葉たち
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「原爆の火」

みなさんは、67年前に広島に落とされた原爆の火が
今も燃え続けていることを知っておられますか?

2004年5月に亡くなられた山本達雄さんが
原爆で命を落とした叔父のうらみと怒りの形見として
広島から持ち帰られました。
そして今は福岡県星野村の星のふるさと公園内にある「平和の塔」で
平和を象徴する火として燃え続けています。

以下こちらのサイトに詳しく記事が掲載されていましたので、
抜粋して転載させていただきました。

http://amanakuni.net/HotNews/HN_yamamoto.html



■美しき星野村■
福岡県の南東、大分県との県境、吸い込まれるように杉木立の合間を縫って細い道をたどって行くと、
そこに星野村がある。
星野村には、何よりも強く人の心をとらえて離さないものがある。
それは、1945年8月6日以来、一度として絶えることなく燃え続けている火、
広島に投下された人類史上初めての原子爆弾の火、すなわち、世界で唯一の「火」である。

なぜ広島の原爆の「火」が、遠く離れたこの星野村で燃え続けているのだろう。
それは、山本達雄さんがいなければあり得なかったであろう。
物語は1945年の暑い夏にさかのぼる。

■広島の生き地獄■
星野村で生れ育った山本さんは、三度目の召集令状を受け、当時広島から130Kmほど東、
豊田郡大乗村の陸軍野営部隊で任務に就いていた。
8月6日、山本さんはいつもの通り、広島近くの宇品にあった本隊に向かうため、汽車に乗っていた。

そして午前8時15分。
突然、車中を白っぽい光が通り抜け、大地を揺がす途方もない爆弾音が・・・。
汽車はそのまま止ってしまった。広島に原爆が落ちた瞬間だった。
 
乗客は大混乱に陥った。
山本さんは何が何だか分からないまま車外に飛び出し、広島方向に向って歩き出した。
市内革屋町で金正堂書店を営む叔父・山本彌助(当時五十六歳)の安否が気掛かりであった。
叔父は当時、町内会長として疎開もせず一人踏みとどまっていた。
 
しかし、市内に近づくにつれて目の当たりにしたのは、男女の区別もつかないほど焼けただれ、
よろよろと逃げ延びてくる人々、そこかしこに転がる黒焦げの死体、
断末魔のうめき声と助けを求める手・・・その惨状は、この世のものとは思えない地獄絵であった
。巨大な火柱となって激しく燃える広島の町。

山本さんは、一歩も前へ進むことができなかった。
翌日から山本さんら部隊は、死に絶えた広島にトラックで通い、死体を集めて焼くなど、重い任務にあたった。
やがて8月15日になり、戦争は終わった。

■火をカイロに■
半月後、復員命令が出た山本さんは、父親代わりに自分を育て、かわいがってくれた
叔父の行方がどうしても気になり、帰郷前にぜひとも確認しておきたいという悲愴な思いで現地に赴いた。
別れを告げるためでもあった。
 
夜は美しい鈴蘭灯でにぎわっていた商店街は、一瞬にして一面の焼け野原と化していた。
幾日も必死になって捜した揚げ句、何の手掛かりも見出せなかった山本さんは、
せめて遺骨代わりになるものはなかろうかと、押しつぶされていた地下壕に降り、
くすぶりの中でまだチロチロと燃え続けていた小さな炎を発見した。

何か生き物のように思え、形見として持ち帰ろうと考えたとき、寒い冬に出征する際、
祖母が孫の身を案じて持たせてくれたカイロを思い出し、奉公袋から取り出した。
一本のカイロ灰を炎にそっと近づけてみた。炎はすぐに燃え移った。
1945年9月16日のことである。
 
その後、故郷の星野村に帰った山本さんは、大切に持ち帰った火を仏壇に灯し、それを絶やさないために、
いろりや火鉢にも移し、23年間、雨の日も風の日も、隣家にさえ漏らすことなく、
家族とともにひそやかに守り続けたのである。
 
しかしその歳月は、山本さんにとって決して生易しいものではなかった。
あの言葉では到底表現しようもない無残さ、原爆投下国に対するどうしようもない感情、
そして火を絶対に絶やしてはならぬという心の重荷、負担。

一時は苦しい胸中の思いを晴らすため、ハワイの上空で火を消そうと考えたこともあったという。
村の消防隊支部長をしていた時のことである。
しかし同時に、あの悲惨な死に方をした何十万人という人々の気持ちを
忘れてはならぬという思いも強くなり、とても火を消すことはできなかった。

こうした苦痛に満ちた複雑な思いを簡単には人に語れぬまま、
20年以上の月日が流れた1966年のある日のことだった。

もう汗ばむほどの季節になっていたのに、まだ家族がこたつに火を入れているのを、
その時たまたま茶の取材で山本さん宅を訪れていたある新聞記者が不審に思った。
そして戦争の話をきっかけに、山本さんはその記者に対し、
積りに積っていた長年の思いを全部爆発させてしまった。
これで「原爆の火」が初めて世に知られることになったのである。

■火を村に■
その後、話は少しずつ広まり、当時の星野村の橋詰喜三郎村長の耳にも入った。
そして全村民の要望として、火は平和を願う供養の灯、世界の平和の道しるべの火として
永遠に灯し続けるために、星野村に正式に引き継がれることになったのである。
 
1968年8月6日、原爆の残り火は山本さんの家から星野村役場前に建立された「平和の塔」に無事移された。

山本さんは当時を振り返り、
「火を村に渡すときは、心の整理もできて平和な気持ちになっていました」と語っている。

この日、一家のものでしかなかった火が、平和の誓いの火として、村の火に、世界の火になったのである。
以来、星野村では毎年8月6日、村を挙げて平和式典を続けている。
 
さらに、被爆50周年を迎えた1995年3月には「星のふるさと公園」の一角に、
新しい「平和の塔」が建立され、福岡県被爆者団体協議会による「原爆死没者慰霊の碑」と
ともに「平和の広場」として整備された。
 



山本さんの「原爆の火」のお話は、絵本にもなっています。
私も購入しましたが、子供さん向けにとてもわかりやすくお話が書かれているので、
ご家族一緒に読んでいただき、平和について話し合うきっかけにしていただければと思いました。

原爆の火/新日本出版社

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そして山本さんが亡くなられる3年前に取材を受けられた動画を観ました。
その動画に広島、長崎の被爆者の方たちの心の叫びが集約されているのではと私が思った
山本さんの言葉をお伝えします。

記者がこう質問されました。
一度に何万人も殺した大虐殺の兵器「原爆」と「アメリカ」を許せますか?日本人としても

そして山本さんはこう答えられました。

 日本人として……それが……なかなか……
 その事実(原爆投下)は消えないが
 水に流す努力をしない限り
 いまイスラムやらで
 しょちゅう殺し合いを繰り返す
 あれと同じ結果しかない

 一生懸命、気持ちを落ち着けて
 そういう恨みは洗い落とさねば
 その努力だけは 死ぬまで続く