アタック散歩 甲子園の組み合わせが決まり自分の認識がずれてることを認識編 | 片麻痺回復への道(アタック散歩)

片麻痺回復への道(アタック散歩)

2008年夏に44歳で、脳卒中後遺症重度左麻痺になりました。リハビリにて回復を目指しております。

自分は野球に特別な思いが全くないので知らなかったが、千葉の代表に市立船橋がなっていた。自分の認識は子供の頃で固定したままなので、千葉の代表と言えば千葉商・調子商・市立習志野のままであった。一律船橋ってサッカーなんじゃないの?野球も強かったんだ?野球で思い出されるのが高校時代のこと。自分が言っていた高校で運動部で偉ぶっていたのはラグビー部であった。アタックもラグビー部だったからねえ。理由はいたって簡単。自分が1年の時の2・3年の先輩が今でいうヤンキーだったから。しかも3年はひどいヤンキーだったからほかの部の先輩たちは逆らえなかったんだよねえ。でも、指導者は体育教師がほとんど。教師の中では野球部の監督が一番力があったので、野球部は勘違いして良くラグビー部の先輩たちにやられていたねえ。練習場は一緒のグランドでやっていたんだよねえ。うちが連勝していると硬球が良く飛んでくるのさ。それを取りに来るのは1年。先輩たちはその1年を捕まえて正座させてると野球部の2年が呼びに来るんだよ。奏したら、その2年も捕まえてせいっさせる。そのうちらぶびーぶのグランドに野球部の1・2年賀ずらっと正座させられてる。それを見かねた監督が来ると。高級が飛んできて危なかったのに頭りもせんと行こうとしたから、土下座するまでは返さないと。いやあ、この先輩たちは怖いなあと1年ながら思っていたよ。練習試合では、審判は各校の監督がやるんだよねえ。先輩たちは相手の反則行為は絶対に許さない。すぐに殴り掛かるのだから。審判にも殴り掛かって退場になったリする。ヤンキー校とやった時にはもう大変。試合後にはもめるのよ。まあ。うちの学校はそこそこ強かったので、ヤンキー校に試合で負けることはない。相手の言いがかりなんだが、まあ、ラック・モールでは相手の顔を殴るのは当たり前だったからねえ。相手が持っているボールを奪うのに離さないので殴って奪うのは審判から見えないようにやる。今の時代のきれいなラグビーとは違っていたねえ。自分はラグビーは格闘技だと思っていた。今はルールが全く違うので、見ていてもわからないしつまらない。自分の頃には反則取られるプレーが今では取られないし、ジャッカルなんて言われていて絶賛されてるからねえ。あれは自分のやっていたころでは反則プレーだったよ。まあ、野球にしろラグビーにしろ認識がずれまくっていることを確認できたけれどね。ジジイは嫌だねえ。 にほんブログ村 病気ブログ 片側痙攣・片麻痺・てんかん症候群へ
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