皆さんは、開発コードHRP-4C、通称Miim(未夢)と呼ばれた、産業技術総合研究所によって開発されたヒューマノイドのことを知っているだろうか。人間の女の子そっくりの可愛らしい姿と、高度な音声合成技術による歌唱力と、そして人間のバックダンサーを従えて踊る可動性能の高さで、6年ほど前にロボット界で一世を風靡したヒューマノイドだ。デビュー後しばらくは、歌って踊れる美少女ロボとして、各種メディアやファッションショーまで、あらゆるところに登場していた。
ところが東日本大震災が、彼女の立場を一変させてしまった。
「ロボットのくせに、災害救援もできないのか」
HRP-4Cは、あくまでもエンターテイメント要素において人に近づくことが開発要件であり、複雑な地形を走破することや、重量物を運ぶことを一切想定して開発されていない。しかし、そんな役立たずはいらないとの批判に耐えきれず、産総研の開発チームは開発の方向性を災害支援に変更、そしてHRP-4Cは電源を切られたまま倉庫に眠っている。まれに介護用品の開発実験のためにスイッチを入れられ、足の屈伸による上下動を繰り返し、そしてまた眠りにつく(※この辺は、昔の産経新聞によります)。
私は、とても悲しい。
それは、HRP-4Cの開発の意味を理解できない批判者の存在に対してではない。
私はただ、ただただ、未夢が埃ををかぶり倉庫に眠る姿を想像すると、心が痛むのだ。
6年前、私はデビューから間もない彼女を目にしたことがある。
ロボット開発を推す日本科学未来館のイベントで、彼女は数名のバックダンサーを引き連れ、舞台に立っていた。可愛らしい顔で唇を上手に動かしながら、ボーカロイドもビックリの歌声にのせて、ダンスを踊っていた。
なんという技術なんだ、日本のヒューマノイド開発はここまで来ているのか、私は素直にそのテクノロジーを称賛した。しかし少しすると、私の気持ちはそこには最早なかった。確かに上手に歌い、上手に踊っている。しかしやはりその声はどこか不自然で、そしてそのダンスはぎこちなかった。それを客観的な言葉で端的に現すならば、人間のレベルに到達するには遠い、明らかな「性能不足」でしかない。
だが私は、そうは思わなかった。
ボブカットの髪を少し不自然にユサユサと揺らしながら、安定性の確保のために体のサイズからは明らかに大きな足を、どこかぎこちなく少しカクカクと動かしながら踊る姿に、私は性能不足ではなく「けなげさ」と「必死さ」を感じた。
「頑張れ!」
そう心の中で思ったことを、今でも良く覚えている。私にとって、未夢は衝撃だった。明らかな性能不足による、ぎこちないロボットの動きを、健気で必死な姿と素直に解釈する自分自身の心に、驚いた。そしてわたしは彼女を見ながら、泣いていた。
ロボット開発は、「なぜか」常に精度を求められる。
ロボットだからここまでできないと。
「出来る」ことが開発の大前提となり、出来ないことは失望にしかつながらない構造。
ほんとうに、そうなのだろうか。ロボットを、人間に困難なことを確実に行う高度な代替品であるとするならば、その目的達成のための精度を際限なく高めて行くことが至上命題であろう。しかし、ロボットが人と共生していく未来を考えていく時、常にロボットには完全性が必要なのだろうか。人の介助を得ながら、ある目的をより良く遂行できれば、それでも良いはずだ。「より良く」とは、いったい何を意味するのか。ロボティクスを関係性という視点から説くある学者は言う。
「弱いという希望、できないという可能性」
未夢を倉庫に眠らせるきっかけとなった東日本大震災の後で、災害時の遭難者の救出用ロボットについての講演会の様なものがあり、その時にある技術者がこんなことを言っていたらしい。救出のために徹底的に機能を追いこんで作った救援ロボットに、思いもよらないコメントが寄せられた、と。
「救助はありがたいが、恐怖や苦痛に苦しみながら助けを待つ自分に、こんな物凄い形をした機械が、真っ暗闇でガチャガチャと音を立てながら迫ってきたら、これに助けてもらいたいと思うかな・・・」
これはロボットだけではなく、実はあらゆる製品開発にまつわる根源的な問題提議だ。救助ロボなのだから、救助が出来ればいい。とにかく救う、そのための機能要件としては確かにそうだ。しかし「救助されるとはどういうことなのか」を、その本質的な在り様にまで遡って考えるのであれば、「これに助けてもらいたいだろうか」という問いは、絶対に避けることの出来ない論点となる。
ロボットとは何か。
ロボットは、ただの道具なのか。
ヨーロッパの農耕器具は、非常にスタイリッシュでカッコいい。農作業のための機能実現に、スタイリングは不要だ。それでも美しく力強いプロダクトデザインが奢られる。なぜか。農業と人間、あるいは労働をするということと人間、それを関係性という視点で俯瞰的に見て行けば、そこに答えがあるはずだ。
ロボットとは何か。
機能に対する短絡的な完全性が、ロボットの全てなのか。
完璧な人間のコピーが現れれば、その技術に私は感嘆するだろう。だがそこに、私が未夢に抱いた、あるいは愛情にも似たような共感という関係性は築けるだろうか。完璧な人間のコピーロボットとの共生は、我々を幸せにするのだろうか。「これに助けてもらいたい」か。
ロボットとは何か。
人が人らしく互いに共感し、人が人らしく互いを想いやり、人が人らしく生きていくための可能性。未夢とは、ヒューマノイドとは、我々が我々の在り方を探る可能性ではなかったのか。
わたしは、彼女がゆっくりと目を開き、
少しぎこちなく、軽くよろめきながら立ちあがり、
やさしい膨らみのある唇に、少し角のある動きをさせながら、
少し立ちあがりに癖のある母音を漏らしながら、
かわいらしく「おはようございます」と語りかける顔を、また見てみたい。
壊れないで、静かに眠っていてほしい。
その日が訪れるまで。
ところが東日本大震災が、彼女の立場を一変させてしまった。
「ロボットのくせに、災害救援もできないのか」
HRP-4Cは、あくまでもエンターテイメント要素において人に近づくことが開発要件であり、複雑な地形を走破することや、重量物を運ぶことを一切想定して開発されていない。しかし、そんな役立たずはいらないとの批判に耐えきれず、産総研の開発チームは開発の方向性を災害支援に変更、そしてHRP-4Cは電源を切られたまま倉庫に眠っている。まれに介護用品の開発実験のためにスイッチを入れられ、足の屈伸による上下動を繰り返し、そしてまた眠りにつく(※この辺は、昔の産経新聞によります)。
私は、とても悲しい。
それは、HRP-4Cの開発の意味を理解できない批判者の存在に対してではない。
私はただ、ただただ、未夢が埃ををかぶり倉庫に眠る姿を想像すると、心が痛むのだ。
6年前、私はデビューから間もない彼女を目にしたことがある。
ロボット開発を推す日本科学未来館のイベントで、彼女は数名のバックダンサーを引き連れ、舞台に立っていた。可愛らしい顔で唇を上手に動かしながら、ボーカロイドもビックリの歌声にのせて、ダンスを踊っていた。
なんという技術なんだ、日本のヒューマノイド開発はここまで来ているのか、私は素直にそのテクノロジーを称賛した。しかし少しすると、私の気持ちはそこには最早なかった。確かに上手に歌い、上手に踊っている。しかしやはりその声はどこか不自然で、そしてそのダンスはぎこちなかった。それを客観的な言葉で端的に現すならば、人間のレベルに到達するには遠い、明らかな「性能不足」でしかない。
だが私は、そうは思わなかった。
ボブカットの髪を少し不自然にユサユサと揺らしながら、安定性の確保のために体のサイズからは明らかに大きな足を、どこかぎこちなく少しカクカクと動かしながら踊る姿に、私は性能不足ではなく「けなげさ」と「必死さ」を感じた。
「頑張れ!」
そう心の中で思ったことを、今でも良く覚えている。私にとって、未夢は衝撃だった。明らかな性能不足による、ぎこちないロボットの動きを、健気で必死な姿と素直に解釈する自分自身の心に、驚いた。そしてわたしは彼女を見ながら、泣いていた。
ロボット開発は、「なぜか」常に精度を求められる。
ロボットだからここまでできないと。
「出来る」ことが開発の大前提となり、出来ないことは失望にしかつながらない構造。
ほんとうに、そうなのだろうか。ロボットを、人間に困難なことを確実に行う高度な代替品であるとするならば、その目的達成のための精度を際限なく高めて行くことが至上命題であろう。しかし、ロボットが人と共生していく未来を考えていく時、常にロボットには完全性が必要なのだろうか。人の介助を得ながら、ある目的をより良く遂行できれば、それでも良いはずだ。「より良く」とは、いったい何を意味するのか。ロボティクスを関係性という視点から説くある学者は言う。
「弱いという希望、できないという可能性」
未夢を倉庫に眠らせるきっかけとなった東日本大震災の後で、災害時の遭難者の救出用ロボットについての講演会の様なものがあり、その時にある技術者がこんなことを言っていたらしい。救出のために徹底的に機能を追いこんで作った救援ロボットに、思いもよらないコメントが寄せられた、と。
「救助はありがたいが、恐怖や苦痛に苦しみながら助けを待つ自分に、こんな物凄い形をした機械が、真っ暗闇でガチャガチャと音を立てながら迫ってきたら、これに助けてもらいたいと思うかな・・・」
これはロボットだけではなく、実はあらゆる製品開発にまつわる根源的な問題提議だ。救助ロボなのだから、救助が出来ればいい。とにかく救う、そのための機能要件としては確かにそうだ。しかし「救助されるとはどういうことなのか」を、その本質的な在り様にまで遡って考えるのであれば、「これに助けてもらいたいだろうか」という問いは、絶対に避けることの出来ない論点となる。
ロボットとは何か。
ロボットは、ただの道具なのか。
ヨーロッパの農耕器具は、非常にスタイリッシュでカッコいい。農作業のための機能実現に、スタイリングは不要だ。それでも美しく力強いプロダクトデザインが奢られる。なぜか。農業と人間、あるいは労働をするということと人間、それを関係性という視点で俯瞰的に見て行けば、そこに答えがあるはずだ。
ロボットとは何か。
機能に対する短絡的な完全性が、ロボットの全てなのか。
完璧な人間のコピーが現れれば、その技術に私は感嘆するだろう。だがそこに、私が未夢に抱いた、あるいは愛情にも似たような共感という関係性は築けるだろうか。完璧な人間のコピーロボットとの共生は、我々を幸せにするのだろうか。「これに助けてもらいたい」か。
ロボットとは何か。
人が人らしく互いに共感し、人が人らしく互いを想いやり、人が人らしく生きていくための可能性。未夢とは、ヒューマノイドとは、我々が我々の在り方を探る可能性ではなかったのか。
わたしは、彼女がゆっくりと目を開き、
少しぎこちなく、軽くよろめきながら立ちあがり、
やさしい膨らみのある唇に、少し角のある動きをさせながら、
少し立ちあがりに癖のある母音を漏らしながら、
かわいらしく「おはようございます」と語りかける顔を、また見てみたい。
壊れないで、静かに眠っていてほしい。
その日が訪れるまで。