最後の投稿は、東北の地震の直後に、石巻と女川を訪れたことについてだった。そして、地震については二度と触れないと書いた。しかし最後にもう一度だけ触れよう。何故なら、それが例え傍観者の無責任な戯言だったとしても、あの日に東北道を石巻で降りた直後の恐怖を私は忘れることができず、だからこそ、昨年六月の怒りと絶望は未だに収まらないから。私は、この国の統治者とそのシステムを、決して許さない。
声を上げるでも、なにか行動をするでもない。ただ文句を言うだけの私だが、しかし一生の事として心に誓った。私は、もう参政権を行使しない。
あれ以来の一年近く、私はテレビと言わず、新聞と言わず、雑誌と言わず、あらゆるメディアの地震や津波、あるいは原発に関する情報を、今後の予知的なもの以外は遮断してきた。テレビに地震や原発の報道が流れれば、チャンネルを変えた。新聞の関連記事は全て読み飛ばしてきた。私は、私の見たものを、なかったことにしたいと思っている。だから、見なかった。しかしそれは昨年の6月までのこと。それ以降に私がそれらの報道を全て排除してきたのは、憤りからだけになる。読めば、私のこころは怒りにざわめく。
しかしながら数日前、新聞に載る被災者のインタビュー記事に、今更ながら目を通した。なぜ今なのかは分からないが、とにかく読んだ。そして、通勤の電車のなかで、涙が止まらなかった。
地震の2週間後に、東北道の石巻インターを降りた直後のことを、なんとここに書けばよいか。ただ一つ言えることは、私は生まれて初めて自分の死を身近に感じた。生きている方が不思議と言われた自動車事故を起こした時も感じなかった、リアルに「死ぬかもしれない」という肌感覚だった。
横浜を夜中の12時に出て、5時間。
明け方に、石巻に着く。
石巻の街は津波に洗らわれ、見渡す限りの残骸の荒野となっていた。ねじれ曲がる骨組みだけとなった工場やビルは、晴天の朝焼けに照らされ黒々とした影となり、静寂の中にじっと佇んでいた。その中を真っ直ぐに走る泥にまみれた道を、自宅の近所で借りたレンタカーで進んだ。
直感した。今もしも大きな余震が起き、津波が再び押し寄せれば、たぶん自分は助からない。この残骸たちとともに、狂った様に押し寄せる津波に飲み込まれる。そのことに気がついた私の鼓動は高鳴り、呼吸は口からハーハーという音とともに漏れ、ハンドルを握る手がブルブルと震えた。
「いつでも行くぞ」。ほくそ笑む様に、その時が来るまで、静かに波はそそり立ち、じっと私を見つめていた。語るでもなく、波は私を見つめていた。
まるで昨日のことの様だ。
私は、まさにその時に、その場に居合わせたわけではない。
目前に迫る、遥か頭上に立ち上がる黒い波の塊に追われた人々の恐怖は、いかばかりであったか。
目前で波にさらわれて行く年老いた親を目で追うしかなかった者たちの眼は、どんな涙を浮かべたのか。
つかみかかる急流に腕を奪われ、胸にかかえた我が子を自ら濁流に流してしまった母たちの絶叫は、どんな声だったのか。
そして今、目に見えぬ塵の毒牙に怯える子供達の落胆を、なにが救うのか。
私は高校生の頃、ある切っ掛けがあり、クラスメイトを前にこう断言したことがある。
僕は日本に生まれたことを幸せに思い、日本人であることを誇りに思っている。
その気持ちは、今もって何らも変わることはない。
私は信じていた。不謹慎なのだろうが、私の心はある意味で踊っていた。この未曾有の自然の猛威と、科学の脆弱さを前に、この国の政治は敢然と団結し、自らの知恵と力を遺憾なく発揮するに違いない。遂に私の愛する国家は、私に国家とは何か、政治のなんたるかを見せつけ、力強く立ち上がるに違いない。私の心に、本当の国の力というものの意味を刻み込んでくれるに違いない。そう心から信じ、私の心は期待に昂ぶった。だから、6月まで3ヶ月間、私はひたすらに信じ続けた。
だが、6月のある日、私の心の糸は、会社に向かう朝の通勤電車のなかで、突然に、プツリと切れてしまった。私の信じた私のこの国は、何も変わらなかった。私の心の高鳴りは、絶望と、怒りと、止めどない哀しみに沈んでしまった。
では、お前が政治家にでもなればいい。くだらない会社など後にして、自ら立ち上がればいい。しかし、言い訳と臆病に取り付かれた私は、何もかもを見ることをやめ、あらゆることを排除し、忘れようとした。そんなにも絶望したのであれば、いっそ捨てればいい。だかしかし、それでも私はこの国を出ようともしない。
私のやったことはただ一つ。6月のその日まで、気にしまいと努めてきた食品の産地を徹底的に調べ、グレーゾーンの食物を生活から排除し始めたことだけだった。
大丈夫、大丈夫と言いつつ、次から次へと大丈夫ではありませんでしたが出てくる。何らのまともに考察された基準が出てこないのであれば、自衛としてはグレーは全て黒として切り捨てるしかない。だから、東京以北の食材は北海道を除いて買うことをやめた。それでは被災地が苦しむ?知ったことではない。なぜ自らの生命を犠牲にしてまで被災地に気を使わなければならないのか。彼らが破産しようが首をつろうが、私の知ったことではない。そうならないようにするのが国政であり、そこから逃げ、福島を始め東北地方への「なにもしない」という事実上の棄民を公然と行い、東電に枕を高くしてイビキをかかせている政府の問題であり、それを一国民が引き受ける道理はない。
では、私の見たあの光景はなんだったのか。それを見てなお、私はなぜこんなことを言わねばならないのか。そして、私は遂に1年ぶりに震災の報道にまともに目を通し、涙し、そして今日も東北の食材を拒否し続ける。
いったい、私はなんのために、なんのために、石巻や女川を見たのか。
瓦礫の影に震えあがった石巻で、子供服を届けるために立ち寄った女川の避難所で、私はずっと罪悪感に苛まれていた。
なにをどう言おうが、私は悲しみにくれる被災地を見学に来た、物見遊山の観光客だった。
そして心のどこかで、本当に私は観光をしていた。
これから5時間かけて横浜に戻れば、温かい布団と、変わらぬ日常に戻れる安全な立場で、私は被災地見物をしていた。
いったい、私は、何をしているのか。
いったい、いったい、いったい、私はなんなのだ。
そして、私は自らを棚に上げ、何をするでもないのに、文句だけを、こんなところに書き連ねる。
でも書かずにいられない、吐露せずにはいられない。
垂れ流される穏やかならざる塵ごときのために、そんなもののために、そんなもののために、私から東北の豊かな食材を奪い、消費というささやかな想いによって、人生を流された人々をささやかに救いたいという心を奪い、そしてなによりも日本国民としてこの国を頑なに信じてきた私の誇りを奪い。
私は国民の責務として、国政選挙に参加し続けてきた。参政権を得て以来、頑なに。それが愛する日本国のためと信じていた。しかし、わたしは金輪際、日本国民として義務と権利を捨てることにした。
それが、私のという人間がする、ほんの些細な抗議だ。
何と情けないことか。自分は情けない、そう言うことで、私は私を弁護している。
それでも言う。
私は、この国を許さない。
私は、この国をこんなにしてしまった民衆を許さない。
だから、わたしは私を許せない。
私は今、とても悲しい。
声を上げるでも、なにか行動をするでもない。ただ文句を言うだけの私だが、しかし一生の事として心に誓った。私は、もう参政権を行使しない。
あれ以来の一年近く、私はテレビと言わず、新聞と言わず、雑誌と言わず、あらゆるメディアの地震や津波、あるいは原発に関する情報を、今後の予知的なもの以外は遮断してきた。テレビに地震や原発の報道が流れれば、チャンネルを変えた。新聞の関連記事は全て読み飛ばしてきた。私は、私の見たものを、なかったことにしたいと思っている。だから、見なかった。しかしそれは昨年の6月までのこと。それ以降に私がそれらの報道を全て排除してきたのは、憤りからだけになる。読めば、私のこころは怒りにざわめく。
しかしながら数日前、新聞に載る被災者のインタビュー記事に、今更ながら目を通した。なぜ今なのかは分からないが、とにかく読んだ。そして、通勤の電車のなかで、涙が止まらなかった。
地震の2週間後に、東北道の石巻インターを降りた直後のことを、なんとここに書けばよいか。ただ一つ言えることは、私は生まれて初めて自分の死を身近に感じた。生きている方が不思議と言われた自動車事故を起こした時も感じなかった、リアルに「死ぬかもしれない」という肌感覚だった。
横浜を夜中の12時に出て、5時間。
明け方に、石巻に着く。
石巻の街は津波に洗らわれ、見渡す限りの残骸の荒野となっていた。ねじれ曲がる骨組みだけとなった工場やビルは、晴天の朝焼けに照らされ黒々とした影となり、静寂の中にじっと佇んでいた。その中を真っ直ぐに走る泥にまみれた道を、自宅の近所で借りたレンタカーで進んだ。
直感した。今もしも大きな余震が起き、津波が再び押し寄せれば、たぶん自分は助からない。この残骸たちとともに、狂った様に押し寄せる津波に飲み込まれる。そのことに気がついた私の鼓動は高鳴り、呼吸は口からハーハーという音とともに漏れ、ハンドルを握る手がブルブルと震えた。
「いつでも行くぞ」。ほくそ笑む様に、その時が来るまで、静かに波はそそり立ち、じっと私を見つめていた。語るでもなく、波は私を見つめていた。
まるで昨日のことの様だ。
私は、まさにその時に、その場に居合わせたわけではない。
目前に迫る、遥か頭上に立ち上がる黒い波の塊に追われた人々の恐怖は、いかばかりであったか。
目前で波にさらわれて行く年老いた親を目で追うしかなかった者たちの眼は、どんな涙を浮かべたのか。
つかみかかる急流に腕を奪われ、胸にかかえた我が子を自ら濁流に流してしまった母たちの絶叫は、どんな声だったのか。
そして今、目に見えぬ塵の毒牙に怯える子供達の落胆を、なにが救うのか。
私は高校生の頃、ある切っ掛けがあり、クラスメイトを前にこう断言したことがある。
僕は日本に生まれたことを幸せに思い、日本人であることを誇りに思っている。
その気持ちは、今もって何らも変わることはない。
私は信じていた。不謹慎なのだろうが、私の心はある意味で踊っていた。この未曾有の自然の猛威と、科学の脆弱さを前に、この国の政治は敢然と団結し、自らの知恵と力を遺憾なく発揮するに違いない。遂に私の愛する国家は、私に国家とは何か、政治のなんたるかを見せつけ、力強く立ち上がるに違いない。私の心に、本当の国の力というものの意味を刻み込んでくれるに違いない。そう心から信じ、私の心は期待に昂ぶった。だから、6月まで3ヶ月間、私はひたすらに信じ続けた。
だが、6月のある日、私の心の糸は、会社に向かう朝の通勤電車のなかで、突然に、プツリと切れてしまった。私の信じた私のこの国は、何も変わらなかった。私の心の高鳴りは、絶望と、怒りと、止めどない哀しみに沈んでしまった。
では、お前が政治家にでもなればいい。くだらない会社など後にして、自ら立ち上がればいい。しかし、言い訳と臆病に取り付かれた私は、何もかもを見ることをやめ、あらゆることを排除し、忘れようとした。そんなにも絶望したのであれば、いっそ捨てればいい。だかしかし、それでも私はこの国を出ようともしない。
私のやったことはただ一つ。6月のその日まで、気にしまいと努めてきた食品の産地を徹底的に調べ、グレーゾーンの食物を生活から排除し始めたことだけだった。
大丈夫、大丈夫と言いつつ、次から次へと大丈夫ではありませんでしたが出てくる。何らのまともに考察された基準が出てこないのであれば、自衛としてはグレーは全て黒として切り捨てるしかない。だから、東京以北の食材は北海道を除いて買うことをやめた。それでは被災地が苦しむ?知ったことではない。なぜ自らの生命を犠牲にしてまで被災地に気を使わなければならないのか。彼らが破産しようが首をつろうが、私の知ったことではない。そうならないようにするのが国政であり、そこから逃げ、福島を始め東北地方への「なにもしない」という事実上の棄民を公然と行い、東電に枕を高くしてイビキをかかせている政府の問題であり、それを一国民が引き受ける道理はない。
では、私の見たあの光景はなんだったのか。それを見てなお、私はなぜこんなことを言わねばならないのか。そして、私は遂に1年ぶりに震災の報道にまともに目を通し、涙し、そして今日も東北の食材を拒否し続ける。
いったい、私はなんのために、なんのために、石巻や女川を見たのか。
瓦礫の影に震えあがった石巻で、子供服を届けるために立ち寄った女川の避難所で、私はずっと罪悪感に苛まれていた。
なにをどう言おうが、私は悲しみにくれる被災地を見学に来た、物見遊山の観光客だった。
そして心のどこかで、本当に私は観光をしていた。
これから5時間かけて横浜に戻れば、温かい布団と、変わらぬ日常に戻れる安全な立場で、私は被災地見物をしていた。
いったい、私は、何をしているのか。
いったい、いったい、いったい、私はなんなのだ。
そして、私は自らを棚に上げ、何をするでもないのに、文句だけを、こんなところに書き連ねる。
でも書かずにいられない、吐露せずにはいられない。
垂れ流される穏やかならざる塵ごときのために、そんなもののために、そんなもののために、私から東北の豊かな食材を奪い、消費というささやかな想いによって、人生を流された人々をささやかに救いたいという心を奪い、そしてなによりも日本国民としてこの国を頑なに信じてきた私の誇りを奪い。
私は国民の責務として、国政選挙に参加し続けてきた。参政権を得て以来、頑なに。それが愛する日本国のためと信じていた。しかし、わたしは金輪際、日本国民として義務と権利を捨てることにした。
それが、私のという人間がする、ほんの些細な抗議だ。
何と情けないことか。自分は情けない、そう言うことで、私は私を弁護している。
それでも言う。
私は、この国を許さない。
私は、この国をこんなにしてしまった民衆を許さない。
だから、わたしは私を許せない。
私は今、とても悲しい。