
が、この年になるまで向田邦子といものに触れたことがありません。短編もエッセイも。そういうことで、短編集を1冊、しばらく前に読んでみました。
とりあえず「そうか、私はずいぶんと今まで損をしてきたのだな」という読後感。要は滅法おもしろかったということなのですが、とにかく「ウィットに富む」というのはこういうことかと、素直に感心しました。「ああ、私はこういう文章が書いてみたいのだなぁ」と、ぼんやりと思ってみたものの、どうしたらいいのかは、よくわからない。
というか、どうやって書くのか考えて書くものでもないだろう。
もちろん構成を考えたりはするのでしょうが、あくまでも自然に書かれるものなのでしょう。向田邦子の例えばエッセイを一言であらわすと、「とりとめもない」。取りとめもないのだが、しかし実際の文章としては取りとめもなく取りまとまってしまっている。しかも、端々に苦笑や微笑の仕掛けを織り込みながら。
本来的に、豊かに言葉を紡ぐ力は訓練では育たない、と思っています。もちろん訓練はあるし(たくさん読書をすることも含めて)、才能も必要ですが、ベースは体験でしょう。どれだけ「触れてきたか」という差が、そのまま出る。
つらいなぁ・・・
私としては、やや西に傾いた日が良く当たる縁側で、薄い桃色が上薬に映えた萩焼の湯飲みでお茶でもすすりながら猫の腹の辺りの毛を手慰めに片手でいじり、もう片手は角の落ちたちゃぶ台に肘でもつきながら向田邦子の本を持ち、たまに鼻くそなどほじりつつ、読む。
そして時々伸びをしながら、遠くの良く晴れた空の奥の方や、細々と老いぼれて味の出た柿の木になる実や、さくさくと良い音を立てそうな落ち葉を眺める。
また猫を一頻りいじり、引き続き向田邦子を読む。
こういう生活がしたいのだが、まあ無理なんでしょうかね。