お蔵にすればいいのですが、なんとなくリライトしてみました。。。
ということで、以下。


今月号(といっても09年の8月)の文芸春秋に、農業ブームの落とし穴というような主旨の記事がありました。

要は、農作業をすると体を動かして清清しくて気分はいいし、飯は旨くなるし、なんか健康になった気もするし、ということで農業にハマるのだが、そんなものは単なる入り口だけで、1年365日休まずそれを続け、しかも商売として成り立たせるのは並大抵ではない、農業はレジャーじゃない、舐めるな・・・という話が全体の半分。

まあそういう話題自体は別に昔からあるし、目新しくもないから、そのこと自体はどうでもいい。

基本的に、農業ブームは3つの側面があると思ってます。
1つ目はエコブーム。地球に優しくから食の安全、生活の豊かさとやらまで、いずれにせよ食生活全般を文化レベルとして上げるというところでの意識。
2つ目は失業。失業者の受け皿として農業が注目された。
3つ目は、社会逃避。社会人として何らかNGの人が、余計な人間関係やお金勘定ビジネスから逃げたくて流れ込む。田舎暮らしブームと微妙にリンクする匂いがありますが。

それで、少なくとも2や3は積極的な選択としての農業ではなく、消去法的に農業に流れてくるので、あっという間に大半が脱落する。1についても、農業がどこかでレジャーの延長線上や、自意識に対する自己実現の手段になっているところがあり、どことなく厳しい。


まあしかし、です。


例えば、80年代のバブル真っ盛り、ホイチョイプロダクションがブイブイいわせていた頃にスキーブームというのがあって、私をスキーに連れてって、ただし苗場のプリンスじゃなきゃダメよ、ということで、金の余ってる若人がこぞってスキー場に繰り出しました。それでもって実際にはその後どうなったかというと、当然ブームは終焉するわけで、スキーに連れて行って欲しかった娘たちは次の行楽地を目指してしまいました。それを馬鹿がブームに乗っただけと言うのは別にいいんですが、なにもそんなに全否定しなくてもいいんじゃないかと思うわけです。

確かにブームそのものはタダの馬鹿騒ぎだったとしても、そのブームのなかでスキーに触れてたことで、本当の意味でスキーにはまってしまい、その後の日本のスキー文化の下支えとなっていった人たちだって多少はいたはずです。ブームってそういうもんじゃないかと思うのです。

だから農業ブームだって、そこから本当に田んぼに骨を埋めていく人たちが少数ながらも確実に残っていくはずで、その新しくはまった人たちが、これからハマるはずの予備軍たちにより近い生身の言葉で農業を語ることで、農業の底上げは少しづつされて行くんじゃないかと。少なくとも10年前はそんな気配すらなく、ひたすら斜陽産業として見捨てられていたのが農業だったんじゃないでしょうか。

そういう意味では、しょせんレジャーと罵られたとしても、アゲ嬢が「農業最高、でも農作業中もメークは完璧よ!」とかやってる姿は、私としては革命的だと思っています。

大学生の頃、ウチの大学にたむろしている最大(といっても数名)のセクトは革マルでした。自治会長なんかやっていた関係で彼らとも話す機会は色々あったわけですが、ある晩に部室棟近辺をウロウロしていたら、連中が「もえーんさん、一緒に飲まない?」とか言って誘われました。
彼らはいわゆる政治セクトとしての匂いを出したくないものだから、普段は革マルの名前は出さず、なんか適当な市民団体みたいな振りをしているし、僕らに対しても「自分たちは革マルじゃない」とか言うわけです。その晩もそうでした。彼らは口にしないけど、話は単純で「僕らはマルクス主義学生同盟(通称マル学同)のメンバーであって、上部組織は革マル派だけど(マル学同は本来的には革共同の学生組織なので、マル学同も革マル派や中核派といった上部組織の分裂があります)、名前上はマル学同だから革マルじゃない」という完全に詭弁としか言えない理屈なのは見え見えです。なんで言ってやりました。

「革マルじゃないって言うけど、マル学同でしょ?そりゃ詭弁だよ。自治会なんやってるくらいだから、あんた達が思っているほどこっちも無知じゃないし、そんな基本的な左翼セクトの構造くらい知ってます」

そしたら、びっくりするくらいショックを受けたみたいで、すっかり黙り込んでしまいました。なんで追い討ちかけてみました。

「そんな社会変革とか革命とか言うのはいいけどさ、メンバー見てみなよ。冴えないオタクみたいなのばっかりじゃん。ほんとに社会変革とか言うなら、渋谷のセンター街とかでしゃがみ込んでるオネーチャンとか取り込めないと話しにならないんじゃないの?そんなん無理でしょ、あんたたち。そんな甲斐性ないじゃん。だから甲斐性なしどうしで寄り集まって文句たれてるだけじゃないの?」

そしたら、さらにうな垂れるわけです。おいおい、随分と打たれ弱いな、革命の闘士達は。。。

それで話を戻すとですね、思うわけです。小悪魔agehaでモデルやったり読んだりしている女の子達が、アグリカルチャーがナウいぜ、とか言ってるわけです。これは凄いことじゃないかと。
そりゃ結局は冒頭で出てきた「農業はレジャーじゃない、舐めるな」ということなんでしょうが、さっきも言ったとおり上っ面の流行りだからといって目くじら立てているんじゃなくて、そんな暇があったら絶好の機会と思って農業盛り上げたい側も上手に利用しちゃえばいいのに、さっぱりそういう雰囲気が見えてこない。


さて、文芸春秋の記事の残り半分はなにかというと、高橋がなりがAVから手を引いて10億かけて農業に入れ込んでいる話。
ただ、そこで高橋がなりが考えているモデルにも、すでに儲かっている脱サラ農家にも共通して見られるモデルにも割りと共通しているように思えることがあって、またそれが私の首ひねりポイントだったりします。

それは「農作物の高付加価値化」です。作物の付加価値をあげて単価も上げ、それでも購入されるようなビジネスモデルをつくることで農家も儲けよう、という話です。
そういえば、四国だかどこかの傾いていた農村で、料亭などに出荷する飾りの葉っぱビジネスで大成功という有名な話がありますが、あれは高付加価値というよりは、ないところに価値を作ったという要素が強いように思うので、ちょっと違いますね。

それで、どうして私が「農作物の高付加価値化」にクビをひねるのか。

確かにそのビジネスモデルが成功すれば、農家は潤うでしょう。買った消費者の満足度もあがるでしょう。では、そもそも農業を成功させなければならない理由って、トータルに考えるとなんでしょうか。
もちろん半分は「農業がやりたい」という個人的な想いです。でも純粋にそれだけなのであれば、家庭菜園をものすごく本格的にする、ということでもその思いはそこそこ達成されないでしょうか。そうじゃないですよね、現状の生活体系そのものを変えて、農生活に身を置き、生計を立てることも重要なファクターです。だからビジネスとして成り立たないと話しにならない。

じゃあ、もう半分はなんでしょう。それは、個人の問題ではなく、社会として農業をどうするのか、つまり農業が産業として成りたち辛くなっている状況をどうするのか、ということです。
日本の食糧自給率とエネルギー自給率は恐ろしく低いわけですが、これらの自給率の問題というのは、言うまでもなく外交と天変地異に対する安全保障の問題です。食料もエネルギーも国家を運営するためのライフラインなのに、日本はものすごい低自給率。それは何かあったらアメリカが助けてくれる、ライフラインの維持に関して日本は守られている、という前提があって始めて許される状況です。
しかし、すでに極東地域のリーダーが日本と言えるのかどうか怪しくなってきた状況で、はたしてその暢気な前提を正直に信じていいものか。だとすると、食糧自給率を上げることは、国家の安全保障の問題としてかなり高い意識を持たなければならないわけです。

つまり話を戻すと、いくら個別の農家が儲かっても、それでは社会的な農業の問題は解決しないということです。確かに高付加価値農業により「起業」「ビジネス」としての農業は盛り上がるかもしれないが、社会全体のマスを満たす農業ビジネスの問題解決には、まったくならない。なぜなら、高付加価値な農産物を高くても買うのは農産物に対する意識の高い一部の層(味が本当にわかっているかどうかは別ですが)であって、それは単なるニッチビジネスでしかないからです。
マスの意識としては「食の安全とか気になるから良さそうなものが買いたいけれど、あまり高いものは買えない」であって、そこをクリアした上で商売としてなりたつ農業にしなければ、前述の葉っぱビジネスのように個人や地域限定の課題はクリアするかもしれないけれど、国家としての農業問題そのものは一つも解決しません。そうすると、勢い保証金をばら撒いて農業の延命措置を計るという税金垂れ流しパターンになってしまうわけです。

繰り返しますが、農業というビジネスには個のとしてのビジネスの問題と社会としてのビジネスの問題があるのですが、農業ブームが個としての志向性ばかりに偏ってしまうと、全体論としてクリアしなければならない農ビジネスに、せっかく志のある大切な農起業家たちの視点が向かなくなってしまい、それは社会として非常に不幸だと思うからです。

じゃあ、お前が鍬でも握って畑でも耕せよと言われそうですが、いや、体よわいんで、ぼく。。。