
曰く、物質は最終的に粒子であるとともに波動でもある。
曰く、宇宙は無限に広がっている。
どういうことか、想像できるでしょうか。
物質というものは、我々の日常においては常にある質量と、明確な周縁部を持った固体としての存在として現れます。その物質が、理論として突き詰めると波動という無形なものでもあるというのはどういうことでしょうか。
私たちは常に有限な世界に生きている以上、無限という概念が日常生活において意識されることはありません。要するに、物質が波動であるとか、宇宙は無限というのは空想においてしか我々は意識することができない、つまり認識レベルには現れない状態であるが故に、具体的にそれがどういうことなのか、私たちには理解ができません。
わかりやすく言えば、生まれつき目の見えない人が、色の概念を持ちようがないのと同じことだと思います(本当は少し違います)。
じゃあ、物質が波動であるとか、宇宙は無限という概念を理解できる人は存在しないのでしょうか。そんなわけがないですね。だって、もしもその概念を理解できる人がいなかったら、そもそもそんな概念が生まれてこないのですから。
じゃあ、それは誰か。
簡単です。
物質が波動であるとか、宇宙は無限という概念を理解できる可能性がある人が存在しているとしたら、それは数学者とか物理学者とか天文学者といった人たちです。膨大かつ難解な数式から「あ、たぶん無限ってこんな感じ」と。それはたぶん、数式からニュアンスというかインスピレーションみたいなものを受け取ることのできる感性を持った人達だけに許された、神の領域の周縁に触れる瞬間なのだと思います。
ずいぶん前に書きましたが、私はこの世界には人の手で触れることのできない「大いなる意思」みたいなものがあり、それはいわば神の領域なのだ思っています。とは言っても、「大いなる意思」でググると、どうもスピリチュアルやら宗教やら、あるいはFF13あたりになってくるのですが、そういうものには私は興味ないんです。私が言いたいのそういうことではないの。
閑話休題。
物理や数学はガチガチの論理の世界で、そういうことをやる人は、物事は1+1=2みたいな決まりごとでしか考えられない人たちと思っている方がいますが、それは大変な間違いです。優れた数学者や物理学者は、とても夢想家で、空想に溺れやすく、極めて感覚的な世界で思考を練り上げる、繊細なロマンチストです。
1年位前の記事で私の書いた「哲学は考えるものではなく、感じるもの」と書いたことと、近いと思います。ただ、哲学は言葉によって、つまり表現し得ない領域を表現によって語ろうとすることに限界があるのであって、やはりそこから先は数学の世界なのでしょう。これも随分と前の記事で書きましたが、古来より哲学者とは数学者であり、歴史学者であり、天文学者であり、そして文学者でもあるという、極めて学際的なものでした。というか、たぶんそうでなければ「世界とは何か」という問いに挑むことは本来的に出来ないのです。
学問が領域ごとに専門家したことのメリットはあると思いますが、結局突き詰めていけば、学際的にならざるを得ない。現代哲学の最大の問題は、哲学者が哲学しかできないことなのです。