話題の白熱教室が、東京大学にて行われたわけだが。。。。
なんとも煮え切らないというか、そもそも煮える以前にお湯が沸かない展開でした。なんでなんでしょうね。


1.罪を犯した家族を警察に突き出すべきか、という問いについて。

NOでもなければYESでもないでしょう。
たとえ無意識であれ、解がYESまたはNOのいずれかであるという予断を持つことが、そもそもこの議論の土台を貧困なものにしています。現実社会における問題の解の多くは、本質的には常に中間的であり、また超越的です。ある明確な結論は、その社会活動の維持のための措置であり、必ずしも解としての本質性を備えてはいません。

犯罪を犯した家族は、家族の属するより大きなコミュニティである社会共同体のルールを犯したのであり、その意味において社会的視点から罪を負う責任があります。

一方で、契約関係によって成立する相互関係ではなく、自然発生的な親密で強い愛によって成立するであろう家族というコミュニティの構成者の罪を、純粋に客観的な犯罪者として、つまり契約関係による社会共同体においての罪を負わせるために機械的に警察機構に引渡し、司法にその未来をゆだねるという行為は、その構成者を家族というコミュニティの視点において見放すことだと考えます。

とるべき行動は、犯罪を犯した家族にその社会的な罪の重大さを理解させ、自らその償いに向かうための動機付けすることで、犯罪を犯した家族の契約社会構成員としての道議的更正を積極的に図ることです。これは罪の償いを家族間の相互同意として受け入れること、つまり贖罪を共有するプロセスを通過することにより、以って社会復帰の後にも家族構成員として、あるいは社会構成員として受け入れ、その困難を共有する体制を整えることになります。これにより、犯罪を償うという社会的責任価値と、家族というコミュニティを永続的に成立させうる価値を両立させることが可能となります。

これが採りうるべき最良の選択と考えます。
もちろん、これは最大公約数としての原則論です。


2.戦争責任はわれわれも負うべきか

NOでもなければ、YESでもない。
これもまた、解がYESまたはNOのいずれかであるという予断を持つことが、そもそも議論の土台を貧困なものにしています。

責任を取るということは、自らを端に発生した事態についてその事態を受け入れる覚悟を持ち、実際にその事態に際して真摯な対応をとることを言います。すくなくとも私はそのように定義しています。
起きてしまった事態にを無かったことにすることは出来ない以上、全く同質かつ等価な状態を復元的に発生させるということは、いかなる事態においても、またいかなる人間においても不可能であり、そのような原理的な責任論を語ることはまったくの無意味であるとともに、事態を未来おいて開かれたものとする可能性を閉ざす、愚かな行為です。

しかしながら、その起きた事態の復旧はかなわないが故に、その復旧と等価と考えられる何らかの保障を行うことは、これはその責任の範疇と当然になります。ところが、起きてしまった事態に対して、全く同質かつ等価な状態を復元的に発生させるということが出来ないということは、その保障が起きた事態と等価になることは無いとも言え、この発想が無限責任論となっていきます。
戦争が国家単位での行為であり、かつ無限責任を論拠にすれば、非当事者である世代が過去の戦争についての責任を取り続けることは、それは加害国家の一員としての連続性の中に存在する以上は当然のこととなるわけです。


責任とは自らを端に発生した事態についてその事態を受け入れる覚悟を持ち、実際にその事態に際して真摯な対応をとることをいうのであれば、直接の当事者ではない世代が過去の戦争に対して責任を負う必要性はありません。我々は現在を生きるものであり、そして未来を生きていかねばならない
存在である以上、繰り返しますが、事態を未来において開かれたものとする可能性を閉ざす行為、主義は愚かと言わざるを得ません。

我々は個人で在るとともに、国家という連続性を持った集団の構成員です。とるべき行動は、国家構成員としての真摯な態度として、その事態により困難と苦痛を受けた、やはり国家という連続性の中に在る相手方の構成員の苦痛と困難を正しく把握することで、自らが置かれた立場を明確に意識するとともに、その態度が無限責任という不毛な連鎖の中に落ち、事態を未来において開かれたものとする可能性を閉ざす愚行となることを排除するために、個人として適当な協調と相互への親密で建設的な関係構築を目指し、その関係性をより広範囲に展開していくことです。

これが採りうるべき最良の選択と考えます。
もちろん、これは最大公約数としての原則論です。


・・・という感じでしょうか。
つまり私が言いたいのは、繰り返しになりますが、一元的な「これが正解」を求めて議論するという、そもそもの議論の仕方に問題がある、ということ。もっとも、そのような議論になる原因は、そういう議論になるような問いの立て方をすることに問題があるのですが、しかし別に件の先生の問いの立て方に問題はないでしょう。
罪を犯した家族を警察に突き出すべきか、戦争責任は非戦争世代の我々も負うべきか、という問いに対して、一元的な解を求めようとする短絡的な発想をした学生に問題がある、ということです。それはつまり、問いには常に1+1=2のような解があるものと思い込んでいる人は、そういう問いの立て方しか出来ない、ということでもあります。

だいぶ以前に、現象学という哲学の考え方があるという話を書いたことがありましたが、現象学、というかその基礎を作ったマルティン・ハイデガーという人考え方基本は、問いのあり方自体を問い直す行為を不断に行い、そこに予断を挟まない、ということなのですが、これは私の諸問題への立ち振る舞い方の重要な基礎になりました。

なりましたが、しかし現実社会ではそういう考え方で進もうとすると、「他人事みたいな態度」とか「評論のようで自分の意見が無い」と捕らえられがちで、非常に面倒です。もっとも、ハイデガーという人の言う「現存在」という予断をエポケー(停止)した存在とは現実的には中々あり得なくて、強いて言えば悟りの境地に達した人みたいなもんなので、煩悩しかない私にはちょっと遠い存在ではあります。