本日(というか既に昨日)の朝日新聞3面に、東大の宗教学者のコメントが載っていた。ちょっと長いが転記。

「脳死はそもそも移植用の臓器を取り出すために作られた概念で、人間の死生観や死別の経験に即して構成されたものではない。血液が流れ、肌は暖かい。子供を産める。それを一律に死者とするのは、人類が培って来た死の文化にむりやり異質な基準を持ち込ものだ。」

脳死という概念そのものは、1950年代に人工呼吸器が実用化されたころからスタートしている。別に臓器移植のために作られた概念ではない。実際、当時は脳死を「生存状態」として捉えていたらしい。つまり、死んではいない以上は臓器の移植はできない。
学者がいい加減なことを言うもんじゃないということだが、ここではそれは本題ではない。脳死は「人間の死生観や死別の経験に即して構成されたものではない」という部分が本題。

そもそも人工呼吸器につながなければ、脳死状態の人は間もなく肺機能も心機能も停止し、名実ともに死ぬ。つまり、人間の死生観に即していないもなにも、元来はそういう生きて死んでいるというシュレーディンガーの猫のような現象は自然状態では起き得ないのだから、そんな死生観がないことは自明のことで、これまた学者様が間の抜けた事を言うものだ。

・・・といのも、本題ではない。

生命の本当の終わりが、細胞の一つのまとまりとして動的平衡状態が失われた状態ということであれば、脳死は人の死ではない。しかし、生命として自立自然的に動的平衡状態が保てないということは、それは一個の生命体としては機能していないということで、少なくとも「生きている」とは言えなかろう。

本題はこここからで、ここでの問題は、概念的には脳死が生きて死んでいる矛盾した状態である以上、正解はないだろうと言うことだ。合っている間違っているということではなく、決め事としてどう決断するかということだろうと思う。どこまでいっても心情と解釈の範疇から出られない以上、幾ら議論を重ねても、全会一致の結論は出ない。

死生観という心情と解釈の範疇から出られない議論を続けることに意味がないわけではない。そこに人としてどんな解釈がありえるのか、そのことを十分に探っておくことは極めて重要なことだろうとは思う。しかし一方で、それを永遠に続けていても不毛なことは明白。


じゃあどうするか。


脳死という問題が発生するのは医療の現場だ。つまり、脳死の決め事はあくまでも医療行為の判断の問題として処理する以外に落としどころがない、ということだと思う。


私は、脳死は一律に人の死だと捉えても良い、と考えている。


家族という利害を共にする人たちが延命を望むのであれば、それはそれで無論よかろう。脳死は一律に人の死だと捉えても「良い」というだけで、機械的に死とせよ、ということではない。
しかし、脳死者を一人の人間として行き続けさせることが医療ならば、移植以外に救命の希望がない患者を助けることもまた医療。そこに優劣はない。私は、医療というのは究極として「助かる者をより多く助け、助からない者をより良く死なせること」だと思っている。

それであれば、もはや生きる意志を持たぬ者が、生きる意志を持つ者に命を繋ぐことは、医療としていけないことだろうか。まだ「死んではいない」者の尊厳は、それで失われるだろうか。
この世界が人間にとってより良く生き、より良く死んでいくためのものであるならば、私は命を繋ぐことに死に逝く者の尊厳があると思う。

例えば、私の愛する子供が脳死となったとき、私はその体の温かさを断ち切る勇気がもてるかどうか、自信がない。しかし、その命を別の幼い命に必ず繋ぐと医者が信念を持って言うのであれば、私はそうしたいと思う気がする。それで子供も楽になれるのではないか。医者が「命を繋ぐ」という一点に信念を持つのあであれば、医療の判断として脳死は人の死であり、年齢などに関係なく移植は行われるべきだろう。

人は死ぬことで消えて無くなるのではない。その死を受け止める人がいる限り、その命は繋がっていく。医療は、その橋渡しをより良くするだけのことでしかない。それは移植云々とは関係なく、純粋な人の生き死にの問題として。