まあ、もともと親しくしていた人がそれほどいないということもあるのだが、一番の理由は元の嫁が大学の後輩だったことと、離婚後に彼女が付き合っていたのがやはり大学の後輩であったことだ。要は、私の大学の知人たちとの関係は彼女たちに引き継がれて、私からは切れたということ。
そんなこんなで、大学の周辺情報はほとんど見聞きしていなかったのだが、意外なところで母校の名前を目にした。

朝日新聞の1面で、大分以前から「人・脈・記」という、色々な過去の社会状況をテーマとして定め、そこでの主要な立場にいた人たちを伝記的に取り上げるコーナーに、私の卒業した大学の名前が載っていた。

最首 悟が4年も前から母校で教授をやっていて、しかも今度の学長選に名を連ねているというではないか。

私と同世代よりも下はもちろん、10歳ほど上の世代でも、最首 悟の名前を知っている人はあまりいないんじゃないかと思う。60年安保の頃に、東大で助手共闘の先頭に立っていた人物で、結局60歳近くで辞めるまで助手のままだった。もともと生物学の人だから、浦本先生の後釜と言う感じだろうか。

しばらく前に学長を退任した三橋先生には世話になったのだが、在任当時に起きたオウム真理教の麻原の三女の入学を拒否した時はびっくりした。私の大学時代の知人たちの間でも、きっと否定的な言葉が交わされていたに違いない。「あの三橋さんが、何故・・・」
私自身、個人的な心情として言うのであれば、彼女は入学させるべきであったと今でも思う。三橋さんにああいうことをされると、私の大学時代はなんだったんだという気になる。「この嘘つき野郎」と悪態の一つもつきたくなると言うものだ。

しかし、一方で三橋さんは哀れだったとも思う。

私が大学を卒業した直後あたりからの大学の様変わりは、あっという間であった。良くも悪くもあの大学のレゾンデートルであった「実験大学」という謳い文句は、あれよあれよと言う間に変容していった。私大である以上はビジネスなのだから、より儲かる方にということは当然と言えば当然。しかし例え有名無実となっていたとしても、最終的には解散することをポリシーとしていた大学の学長として、その流れの中で、どれほどであれ三橋さんは苦悩したに違いない。心中察して余りある。
オウムが例の事件を起こした直後に、彼らが本当は今、何を考えているのか聞いてみようと思い、上祐史浩はじめ出家信者を大学に呼び寄せ公開討論会を開こうとして(というか開いてしまい・・・)、新聞は来るは、警察は実家にたずねて来るは、車に乗っているとパトカーに囲まれるはの騒ぎを起こした当の本人としては、
面倒な思いもしただけに、アーチャリーのことでの三橋さんには同情する。

そんな我が母校が、最首さんを教授として呼び寄せ、しかも学長選に出させると言うのはなにか悪い冗談かとも思う。それは、いまさらよくそんな人選をしたものだという想いと、言っちゃ悪いが最首さんにそんな価値があるのか、という想いと、なんとも複雑な気分だ。

冗談なら、随分と捨て身の渾身のギャグだわ。ははは。。。