つまり私は、休みを終えるチャイムに気がつかず、ずっと校庭で遊び続けてしまい、その過ちに気がつきあわてて教室に戻ったが、すでに授業の始まった教室には入れず、扉の窓からそわそわと教室の様子を伺う子供のままということであろう。
34年前、私は3歳の子供だった。
幼少期を過ごした街の駅前には交番があって、その交番の前に停まるパトロールカーの運転席に、私はどうしても乗りたかった。実家のアルバムの中に、タータンチェックのオーバーコートをもっさりと着込み、頭に警察官の制帽をかぶりながら、真剣な面持ちでパトロールカーのハンドルを握る3歳の私が、いる。そんなことを許してくれる、おおらかな時代だった。
20年前、私は17歳の高校生だった。
まるでつい数年前の出来事のように思うが、猫ならばその一生を終えてしまうくらいに長い年月の過去のこと。
小学生の頃、その6年間は無限かと思うほどに長かったように記憶する。それなのに、20年前の高校時代から、すっかりと顔の皮もたるんできたこの37歳までの20年間という猫の一生ほどの年月は、瞬く間に過ぎていった。
そして、私はその流れる月日を、流れるにまかせた。
20代のころ、私は大学生だった。「時が流れるとはなんだろう」。違和はその頃にはすでに私にまとわりついていた。思えば高校生の頃、すでに私は私の中の不可解な苛立ちに気をとられていた。
私を巻き込み時が流れ、その時に自分という固体が収まっていることに感覚的な了解を得られないことに、私は自らの頼りない手をまじまじと眺めながら、苛立った。その違和は、いま電車に乗りながら、車窓の向こうにぼんやりと見やる薄曇りに沈む夕方の空の下あたりに、今もふわふわと佇む。
ふわふわと佇む違和と不安は、しかし一方でその空の下からこちらには、もう身を寄せてはこない。わたしは、時々思い出したように、その違和を眺めながら、流れるにまかせ、過ぎ去った自分の時に思いを馳せる。
大学生のころ、所属していたというか、たむろしていたというか、住んでいた映画サークルで、そこのメンバーが他大学の映画サークルの知り合いを連れてきたことがあった。名前は既に忘れたが、小柄でいがぐり頭の奴だった。
彼の撮影スキルは、素人の映画好き学生のレベルとしては突出していた。フィルターの使い方、画角の切り方、影の使い方、どれもが上手かった。その彼が撮った映画のナレーションの一節が、いまも私の心を沈ませる。
私は、私の少年時代がすでに過ぎ去ってしまったことに、愕然とする。
それは、射抜くかのように鋭く、私の心情を言語にしたものだった。言いたくても、言うべき言葉を口が探せなかった、そういう一言であった。わたしは、幼少を過ごしたアパートの庭で、近所の友達と怪獣の玩具で泥遊びをしていた30数年前から、どうして生きてきたのか良く覚えていない。
いま住んでいるところから、特に遠いということではない、思い出の街を歩く。
興奮しながら、夜が明けるのもかまわず読み耽ったジャック・ケルアックの「路上」を買った本屋は、すっかりと模様替えをして、本を積み上げるかのように陳列していた昔の雑多な印象はなくなっている。
その昔、揺らめく暖炉の明かりに特別な神秘があるかのように思いながら、両親とピザを良く食べに出かけたピザ屋は、ただのどこにでもあるピザ屋になっていた。
私のクリスマスプレゼントの本当の供給者であった駅前のおもちゃ屋は取り壊され、ただの複合ビルに生まれ変わっていた。
どれほど街が上滑りに若者に人気のおしゃれな街になっても、高架下のヨレヨレの鯛焼き屋は異彩を放ちながら佇んでいたのに遂には店をたたみ、いまは高そうなチョコレートショップへと成れ果てた。
べつに故郷の様変わりを嘆いたり、懐かしむ訳ではない。ただ、私の生家であった父の勤めた会社の社宅の広い庭に佇むと、私はそこに泥だらけの怪獣が今も見えてしまうだけのことだ。
そういえば、いつか化石になるに違いないと埋めたザリガニの死骸は、あの変電設備を収納したコンクリート製の小屋の脇に今もうずくまっているに違いない。あるいは既に土に還ったか。そしてそのザリガニが土に還る間に、私は順当な寿命による人生の予定の約半分近くを終えた。
あるいは、私は幾つかの自らの選択について、その選択の在り方を問う機会をすでに逸している。というよりは、そのこと自体をぼんやりと遠巻きに眺めている。
思えば、私の生まれた1971年という年は、随分と微妙な立ち居地にいる。
68年の東大安田講堂の陥落を契機に、70年安保闘争は胡散霧消どころか自らの内臓を引きずり出して切り刻み、政治の季節は祭りの終焉のごとく、提燈の火は風前に潰えた。小田実も開高健もべ平連とともに戦う相手は矮小化した。
共産主義の敗北を予感するかのように、人類の夢を乗せてアポロ計画は月面に降り立つ。これは69年のこと。
そして70年には、その月面着陸の土産である月の石が、大阪万博でゴロリと展示された。「進歩と調和」。熱に浮かされた子供なように、そのロマンティックな科学技術の将来は21世紀に向けて光り輝いていた。ちなみに同じ月の石は、輝ける21世紀の5年目に愛知万博で再び衆目にさらされたが、今は昔、それを見た子供の瞳に輝きは欠片ほどもない。
そんなこんなで71年は私の生誕があったわけだが、実は70年を境に、そういうトピックはぱたりと姿を消す。早い話が、輝ける未来も限りない技術の進歩も、来りてみれば昨日の続きでしかなかったということで、熱病がすっかりと治癒してしまったと同時に私の人生はスタートを切った。号砲の火薬も湿気で点火せず。
それから先の話は既に述べたとおりだが、別段に文学的な抑揚はない。抑揚はないのだが、厳然とした不明瞭な存在の違和は私の睡眠時間を奪い、朝の靄の中を鋭く新聞配達のバイクの音が走るとともに、まどろみの中に私は落ちた。
哲学書を読む、という行為は、世の中としてはどうも非常に高度な行為とされる。しかし、例えばメルロ・ポンティの哲学が極めて文学的な息吹で語られたもので、そこには、ほとばしる様な汗まみれの魂の叫びが記されていたように、つまるところ、哲学とは動機によって読まれるべきもので、むしろその動機さえあれば理解できるものだろうと思う。言い方を変えれば、哲学書は読むものではなく感じるものであり、またそれ故に読む必要のある人とない人は、厳然と二つに分かれてしまう。それは良し悪しのことではないし、むしろ読む必要がない方が正しいだろう。浅田彰よろしく80年代のニューアカ時代ならいざ知らず、いまどき不用意にそんなものを小洒落たカフェかなんかで読んでいると馬鹿にしか見えない。意味も分らずチェ・ゲバラのTシャツを着ているのと同じくらい阿呆くさい。
チェ・ゲバラと言えば、今から15年ほど前に、一度だけキューバに出向いたことがあったが、現地の空港で私を待っていた添乗員というかなんというか、要は向かえの人が、やたら目の小さいおばちゃんで、開口一番「チェとかお好きですか?」とかなんとか聞いてきたのには閉口した。あからさまに70年過ぎて逃げてきただろうという匂いが漂っている。
もっとも、そのおばちゃんとの遭遇はそれ以降は帰国日まではなく、その後に観光案内をチラホラとしてくれたのは、父親が日本のキューバ大使だったという30半ばくらいの女性で、これはこれでけっこう美人でよかったのだが、実はこの旅行には相棒がいたために余計な誘惑もできず、というか大学生のウブな私には手が出なかった。
キューバと言えば野球だが、これも良かった。球場のそとで選手が出てくるのをぼんやりとまっていると、隣にいたオッサンがビンに入ったなにかジュースらしき飲み物をくれた。清潔な日本人としては断固ことわるところだろうが、幸い私は不潔だったので喜んで試飲。未だになんのジュースだったのだか不明だが、目玉が飛び出るほど旨かった。いまだに忘れられない。忘れられないが、そのとき一緒に球場にいたのが目の小さいおばちゃんだったことは、いまこれを書いていて急に思い出したのだが、忘れておきたかった。
ちなみに日本に帰る飛行機の中で、カストロの娘がアメリカに亡命したというニュースが流れ、時は遷ろうと感慨深かった記憶がある。
閑話休題。
哲学は、結局なんなんだろうと思うのだが、行き着くところは抑圧と生き難さへのプロテストなわけで、そういう意味では魂の叫びになるのは至極当たりまえか。真理の追求という純粋にロジックの追求という側面もあるのだが、そこはやはり述者の生来の「思索せずにはいられない」という不幸な性格がついてまわり、いずれにせよロマンチックな追求の先にある見果てぬものを求めることであって、そんなものにとらわれてしまうのも一種の生き難さかとも思う。
90年代には、現象学というのが一部で流行った。
流行ったのだが、ハイデガーだとかのいわゆる現象学からは、なんとなく逸脱して変な精神論のような体を成していたように記憶する。
竹田青嗣とか浅羽道明とかなんやら流行って、要するに「宝島30」が幅を利かせていた頃。中央公論や文芸春秋、あるいは正論みたいな古典的なオピニン雑誌が徐々に衰退し、変わって宝島30はじめ大航海だのなんだのグチャグチャと出始めた時期だった。
そういえば、私が大学に入学した年が、朝日ジャーナルが休刊(廃刊??)となった年で、最終号はいまだに本棚の肥やしとしてどこかに眠っている。ちなみにその翌年あたりには状況が復刊してびっくりしたが、自治会室(もっとも私の大学では自治会と言わなかったが)の本棚の上に今は昔とヘルメットが並んでいた馬鹿大学だったので、それはそれでトピックだった。そのわりに読んでいる者があまりいなかったのは、意外と冷静だったということか。
さてそれで、その逸脱していた方の現象学の世界では「物語」というキーワードが随分ともてはやされた。物語というのは小説ということではなくて、早い話が時代に通底する雰囲気というか気分というかキーワードというか。まあ、70年までは闘争の時代みたいな、そういうことだ。
それで、じゃあ90年代はなんだという話になると、「物語がなくなった」ということになっていて、吉本隆明っぽく言えば、共同幻想がなくなりました、ということ。
そういえば(そういえばが多いな・・・)、橋本治が隆盛を誇ったのはやはり中沢新一やら浅田彰やらとならんで80年代で、またしてもそういえば初めて買った橋本治の本は「革命的半ズボン主義者宣言」だったのだが、これも考えたら前述のジャック・ケルアックの「路上」を買った本屋だった。意外と私の中で重要な本をこの本屋で買っている。
そしてまたしてもそう言えば総入歯なのだが、中沢新一と浅田彰の対談が載っていた「CREA(クレア)」という女性誌があった。あった、と過去形だが、いまでも本屋に並んでいるあのCREAのことで、実はあれは創刊当時は文春がお洒落な知的女性オピニオン雑誌として世に問うた革命的な雑誌だったのだが、私が社会人になってしばらくしたころにはすっかりバブル崩壊の瓦礫すら残っていない状況。そんなこんなで走ったコンセプトも消え去ってしまい、ただのファッション雑誌になってしまったのだが、今も生き残っているのだからそれはそれか、とも思う。
再び閑話休題。
そういうことで物語がなくなったので、今の若者はとりあえず信じとけばよい寄らば大樹の幻想がないから行き難くて大変、という甘っちょろいことを標榜していたのだが、それで90年代的なフニャフニャしたモラトリアムが社会に通底する気分になったらしい。ロッキンオンあたりでは、ちょうどフニャモラという用語がもてはやされていた。まあ私は密かにクロスビート派だったけどね。ええ、つまらない人間ですから。
それで話を戻すと、個人的にはそんなのを馬鹿じゃないかと思っていたのだが、いちおう真面目に受け止めるのであれば、「物語がない、という物語」が共有されただけで、結局やる気ないことの免罪符かというところかなと思った。
で、そんな話をゼミでしたら、それを言うことに何の意味があると言うやつがボロボロといた。別にいいけれど、それを言う意味がないのであれば、つまり「所詮のところ世界は虚構とイメージの上に成り立っている」という話が論点として成立させられないなら、そもそも社会学なんて霞をつかむようなことやんなきゃいいのにと思ったが、考えてみたらやる気と自己反省のない三流大学の文系ゼミで、三流大学生をやってならが偏差値教育をニヤニヤしながら批判する馬鹿を真面目に相手をするのも面倒くさいので、鼻糞をほじっていたような気がする。まして、卒業生風情が仕事もせずにゼミに出入りして、知ったような顔で知の探求者とばかりに屁理屈ぶっている姿は見るに耐えない。
そういうことで、私の違和は別に何一つ解消はされていない。あいもかわらず薄曇りに沈む夕方の空の下あたりに今もふわふわと佇む違和と不安は、私の中では同居人のようなものになってしまっている。
「見る」主体としての「意識」が、その存在の物理的な位置を確定させられないにもかかわらず、「在る」という現象を不用意に理屈として認知してしまうそういう「私の意識」は、結局のところ「現象の中に在る存在は、その現象として存在する世界が現実であることを原理的に証明できない」という堂々巡りのロジックをひたすら意識し、無駄な抵抗にため息をつく。
だから、あいもかわらず私は私の体との同一性を保ってはくれない。
どこをどう見てもこれが自分の手だの足だのであるという実感など欠片もなく、強いて言えば「痛い」という触感がつながりを想起するかと。それは単なる離人症で、さっさと精神科にでもかかった方がいいのではないかと20年来いわれ続け、いまだにそんな気もないのだが。
別にそんなことは今更どうでもいい。問題は、いつまで私は扉の窓からそわそわと教室の様子を伺い続けるのか、ということだ。
それはつまり、わたしは、幼少を過ごしたアパートの庭で、近所の友達と怪獣の玩具で泥遊びをしていた30数年前から、どうして生きてきたのか良く覚えていない、ということからの離脱なのだが、そのハードルは思いのほか高い。
「やればできる」とは聞こえがいいが、そこには常に「やれない」という可能性が同居していることは忘れられがちだ。そして多くの場合、実際にその二つは同居している。器用貧乏も、何を言おうが要は貧乏でしかない。
悩み多きことは大切だが、尾崎豊っぽい薄気味の悪い青春の悩みも含めて、そういうことは二十歳そこそこでクリアして欲しいところだ。いい大人が自分探しとかいっている姿は、馬鹿にしか見えない。
私は私の少年時代が過ぎ去ってしまったことに愕然とはするのだが、一方で鏡に映る顔にいままで感じたことのなかった加齢をここ数年で感じる中で、自分が取り返しのつかないことをしてしまったことに今更ながら気がつきつつある。気がついたところで、どうしようもないのもまた事実。あいもかわらず私の少年時代は遠くて近い物語だ。
何を以って投了とするのかはよくわからないが、少なくとも飛車角落ちの状況の中では、二歩をしてでもというところではある。しかし二歩をするには相応の意思が必要で、「やればできる」と「やれない」が同居している状況の人間には、というかすでに「やれない」しか残っていない者には盤をひっくり返すしかなく、それでもひっくり返した裏面にも将棋盤が在るとは限らない。在るかどうかは本人の資質と歩んできた歴史次第だが、盤面にテントウムシが3匹ウロウロとしている姿を見ると、どうもひっくり返す気も縮む。別にそれは悪いことではないし、それも一つの投了の仕方だが、投了前の手が悪い。投了前の手が悪いと、その日の夜の寝つきが悪い。
馬鹿と泥舟に乗って沈没するのは御免だが、王様の耳は驢馬の耳。貧すれば鈍する。
そうこうしているうちに、私を乗せた田園都市線は二子玉川を過ぎ、車窓の向こうにぼんやりと見やる薄曇りに沈む夕方の空の下あたりに、今日も不安はふわりふわりと佇む。
ボーリングをしていると、力任せに勢いよくボールを投げたために、ガーターにもかかわらずボールが弾き返されてレーンに戻ってくることがある。それでストライクでもとれればいいのだが、なぜか中途半端にスプリットになったりする。それでもピンが倒れただけで良しとするか。
私は、どうして同じような話を何度も繰り返しているのだろうか。
自己批判は、常に自己弁護の裏返しでしかない。自らを批判することは、最も簡単な逃げでしかない。と、高校生の時の日記に私は書いた。
自己批判などしない。反省はしても、後悔はしない。
自虐の歌は、朗らかに歌う。
幸も不幸もない。ただ、人生には意味がある。
34年前、私は3歳の子供だった。
幼少期を過ごした街の駅前には交番があって、その交番の前に停まるパトロールカーの運転席に、私はどうしても乗りたかった。実家のアルバムの中に、タータンチェックのオーバーコートをもっさりと着込み、頭に警察官の制帽をかぶりながら、真剣な面持ちでパトロールカーのハンドルを握る3歳の私が、いる。そんなことを許してくれる、おおらかな時代だった。
20年前、私は17歳の高校生だった。
まるでつい数年前の出来事のように思うが、猫ならばその一生を終えてしまうくらいに長い年月の過去のこと。
小学生の頃、その6年間は無限かと思うほどに長かったように記憶する。それなのに、20年前の高校時代から、すっかりと顔の皮もたるんできたこの37歳までの20年間という猫の一生ほどの年月は、瞬く間に過ぎていった。
そして、私はその流れる月日を、流れるにまかせた。
20代のころ、私は大学生だった。「時が流れるとはなんだろう」。違和はその頃にはすでに私にまとわりついていた。思えば高校生の頃、すでに私は私の中の不可解な苛立ちに気をとられていた。
私を巻き込み時が流れ、その時に自分という固体が収まっていることに感覚的な了解を得られないことに、私は自らの頼りない手をまじまじと眺めながら、苛立った。その違和は、いま電車に乗りながら、車窓の向こうにぼんやりと見やる薄曇りに沈む夕方の空の下あたりに、今もふわふわと佇む。
ふわふわと佇む違和と不安は、しかし一方でその空の下からこちらには、もう身を寄せてはこない。わたしは、時々思い出したように、その違和を眺めながら、流れるにまかせ、過ぎ去った自分の時に思いを馳せる。
大学生のころ、所属していたというか、たむろしていたというか、住んでいた映画サークルで、そこのメンバーが他大学の映画サークルの知り合いを連れてきたことがあった。名前は既に忘れたが、小柄でいがぐり頭の奴だった。
彼の撮影スキルは、素人の映画好き学生のレベルとしては突出していた。フィルターの使い方、画角の切り方、影の使い方、どれもが上手かった。その彼が撮った映画のナレーションの一節が、いまも私の心を沈ませる。
私は、私の少年時代がすでに過ぎ去ってしまったことに、愕然とする。
それは、射抜くかのように鋭く、私の心情を言語にしたものだった。言いたくても、言うべき言葉を口が探せなかった、そういう一言であった。わたしは、幼少を過ごしたアパートの庭で、近所の友達と怪獣の玩具で泥遊びをしていた30数年前から、どうして生きてきたのか良く覚えていない。
いま住んでいるところから、特に遠いということではない、思い出の街を歩く。
興奮しながら、夜が明けるのもかまわず読み耽ったジャック・ケルアックの「路上」を買った本屋は、すっかりと模様替えをして、本を積み上げるかのように陳列していた昔の雑多な印象はなくなっている。
その昔、揺らめく暖炉の明かりに特別な神秘があるかのように思いながら、両親とピザを良く食べに出かけたピザ屋は、ただのどこにでもあるピザ屋になっていた。
私のクリスマスプレゼントの本当の供給者であった駅前のおもちゃ屋は取り壊され、ただの複合ビルに生まれ変わっていた。
どれほど街が上滑りに若者に人気のおしゃれな街になっても、高架下のヨレヨレの鯛焼き屋は異彩を放ちながら佇んでいたのに遂には店をたたみ、いまは高そうなチョコレートショップへと成れ果てた。
べつに故郷の様変わりを嘆いたり、懐かしむ訳ではない。ただ、私の生家であった父の勤めた会社の社宅の広い庭に佇むと、私はそこに泥だらけの怪獣が今も見えてしまうだけのことだ。
そういえば、いつか化石になるに違いないと埋めたザリガニの死骸は、あの変電設備を収納したコンクリート製の小屋の脇に今もうずくまっているに違いない。あるいは既に土に還ったか。そしてそのザリガニが土に還る間に、私は順当な寿命による人生の予定の約半分近くを終えた。
あるいは、私は幾つかの自らの選択について、その選択の在り方を問う機会をすでに逸している。というよりは、そのこと自体をぼんやりと遠巻きに眺めている。
思えば、私の生まれた1971年という年は、随分と微妙な立ち居地にいる。
68年の東大安田講堂の陥落を契機に、70年安保闘争は胡散霧消どころか自らの内臓を引きずり出して切り刻み、政治の季節は祭りの終焉のごとく、提燈の火は風前に潰えた。小田実も開高健もべ平連とともに戦う相手は矮小化した。
共産主義の敗北を予感するかのように、人類の夢を乗せてアポロ計画は月面に降り立つ。これは69年のこと。
そして70年には、その月面着陸の土産である月の石が、大阪万博でゴロリと展示された。「進歩と調和」。熱に浮かされた子供なように、そのロマンティックな科学技術の将来は21世紀に向けて光り輝いていた。ちなみに同じ月の石は、輝ける21世紀の5年目に愛知万博で再び衆目にさらされたが、今は昔、それを見た子供の瞳に輝きは欠片ほどもない。
そんなこんなで71年は私の生誕があったわけだが、実は70年を境に、そういうトピックはぱたりと姿を消す。早い話が、輝ける未来も限りない技術の進歩も、来りてみれば昨日の続きでしかなかったということで、熱病がすっかりと治癒してしまったと同時に私の人生はスタートを切った。号砲の火薬も湿気で点火せず。
それから先の話は既に述べたとおりだが、別段に文学的な抑揚はない。抑揚はないのだが、厳然とした不明瞭な存在の違和は私の睡眠時間を奪い、朝の靄の中を鋭く新聞配達のバイクの音が走るとともに、まどろみの中に私は落ちた。
哲学書を読む、という行為は、世の中としてはどうも非常に高度な行為とされる。しかし、例えばメルロ・ポンティの哲学が極めて文学的な息吹で語られたもので、そこには、ほとばしる様な汗まみれの魂の叫びが記されていたように、つまるところ、哲学とは動機によって読まれるべきもので、むしろその動機さえあれば理解できるものだろうと思う。言い方を変えれば、哲学書は読むものではなく感じるものであり、またそれ故に読む必要のある人とない人は、厳然と二つに分かれてしまう。それは良し悪しのことではないし、むしろ読む必要がない方が正しいだろう。浅田彰よろしく80年代のニューアカ時代ならいざ知らず、いまどき不用意にそんなものを小洒落たカフェかなんかで読んでいると馬鹿にしか見えない。意味も分らずチェ・ゲバラのTシャツを着ているのと同じくらい阿呆くさい。
チェ・ゲバラと言えば、今から15年ほど前に、一度だけキューバに出向いたことがあったが、現地の空港で私を待っていた添乗員というかなんというか、要は向かえの人が、やたら目の小さいおばちゃんで、開口一番「チェとかお好きですか?」とかなんとか聞いてきたのには閉口した。あからさまに70年過ぎて逃げてきただろうという匂いが漂っている。
もっとも、そのおばちゃんとの遭遇はそれ以降は帰国日まではなく、その後に観光案内をチラホラとしてくれたのは、父親が日本のキューバ大使だったという30半ばくらいの女性で、これはこれでけっこう美人でよかったのだが、実はこの旅行には相棒がいたために余計な誘惑もできず、というか大学生のウブな私には手が出なかった。
キューバと言えば野球だが、これも良かった。球場のそとで選手が出てくるのをぼんやりとまっていると、隣にいたオッサンがビンに入ったなにかジュースらしき飲み物をくれた。清潔な日本人としては断固ことわるところだろうが、幸い私は不潔だったので喜んで試飲。未だになんのジュースだったのだか不明だが、目玉が飛び出るほど旨かった。いまだに忘れられない。忘れられないが、そのとき一緒に球場にいたのが目の小さいおばちゃんだったことは、いまこれを書いていて急に思い出したのだが、忘れておきたかった。
ちなみに日本に帰る飛行機の中で、カストロの娘がアメリカに亡命したというニュースが流れ、時は遷ろうと感慨深かった記憶がある。
閑話休題。
哲学は、結局なんなんだろうと思うのだが、行き着くところは抑圧と生き難さへのプロテストなわけで、そういう意味では魂の叫びになるのは至極当たりまえか。真理の追求という純粋にロジックの追求という側面もあるのだが、そこはやはり述者の生来の「思索せずにはいられない」という不幸な性格がついてまわり、いずれにせよロマンチックな追求の先にある見果てぬものを求めることであって、そんなものにとらわれてしまうのも一種の生き難さかとも思う。
90年代には、現象学というのが一部で流行った。
流行ったのだが、ハイデガーだとかのいわゆる現象学からは、なんとなく逸脱して変な精神論のような体を成していたように記憶する。
竹田青嗣とか浅羽道明とかなんやら流行って、要するに「宝島30」が幅を利かせていた頃。中央公論や文芸春秋、あるいは正論みたいな古典的なオピニン雑誌が徐々に衰退し、変わって宝島30はじめ大航海だのなんだのグチャグチャと出始めた時期だった。
そういえば、私が大学に入学した年が、朝日ジャーナルが休刊(廃刊??)となった年で、最終号はいまだに本棚の肥やしとしてどこかに眠っている。ちなみにその翌年あたりには状況が復刊してびっくりしたが、自治会室(もっとも私の大学では自治会と言わなかったが)の本棚の上に今は昔とヘルメットが並んでいた馬鹿大学だったので、それはそれでトピックだった。そのわりに読んでいる者があまりいなかったのは、意外と冷静だったということか。
さてそれで、その逸脱していた方の現象学の世界では「物語」というキーワードが随分ともてはやされた。物語というのは小説ということではなくて、早い話が時代に通底する雰囲気というか気分というかキーワードというか。まあ、70年までは闘争の時代みたいな、そういうことだ。
それで、じゃあ90年代はなんだという話になると、「物語がなくなった」ということになっていて、吉本隆明っぽく言えば、共同幻想がなくなりました、ということ。
そういえば(そういえばが多いな・・・)、橋本治が隆盛を誇ったのはやはり中沢新一やら浅田彰やらとならんで80年代で、またしてもそういえば初めて買った橋本治の本は「革命的半ズボン主義者宣言」だったのだが、これも考えたら前述のジャック・ケルアックの「路上」を買った本屋だった。意外と私の中で重要な本をこの本屋で買っている。
そしてまたしてもそう言えば総入歯なのだが、中沢新一と浅田彰の対談が載っていた「CREA(クレア)」という女性誌があった。あった、と過去形だが、いまでも本屋に並んでいるあのCREAのことで、実はあれは創刊当時は文春がお洒落な知的女性オピニオン雑誌として世に問うた革命的な雑誌だったのだが、私が社会人になってしばらくしたころにはすっかりバブル崩壊の瓦礫すら残っていない状況。そんなこんなで走ったコンセプトも消え去ってしまい、ただのファッション雑誌になってしまったのだが、今も生き残っているのだからそれはそれか、とも思う。
再び閑話休題。
そういうことで物語がなくなったので、今の若者はとりあえず信じとけばよい寄らば大樹の幻想がないから行き難くて大変、という甘っちょろいことを標榜していたのだが、それで90年代的なフニャフニャしたモラトリアムが社会に通底する気分になったらしい。ロッキンオンあたりでは、ちょうどフニャモラという用語がもてはやされていた。まあ私は密かにクロスビート派だったけどね。ええ、つまらない人間ですから。
それで話を戻すと、個人的にはそんなのを馬鹿じゃないかと思っていたのだが、いちおう真面目に受け止めるのであれば、「物語がない、という物語」が共有されただけで、結局やる気ないことの免罪符かというところかなと思った。
で、そんな話をゼミでしたら、それを言うことに何の意味があると言うやつがボロボロといた。別にいいけれど、それを言う意味がないのであれば、つまり「所詮のところ世界は虚構とイメージの上に成り立っている」という話が論点として成立させられないなら、そもそも社会学なんて霞をつかむようなことやんなきゃいいのにと思ったが、考えてみたらやる気と自己反省のない三流大学の文系ゼミで、三流大学生をやってならが偏差値教育をニヤニヤしながら批判する馬鹿を真面目に相手をするのも面倒くさいので、鼻糞をほじっていたような気がする。まして、卒業生風情が仕事もせずにゼミに出入りして、知ったような顔で知の探求者とばかりに屁理屈ぶっている姿は見るに耐えない。
そういうことで、私の違和は別に何一つ解消はされていない。あいもかわらず薄曇りに沈む夕方の空の下あたりに今もふわふわと佇む違和と不安は、私の中では同居人のようなものになってしまっている。
「見る」主体としての「意識」が、その存在の物理的な位置を確定させられないにもかかわらず、「在る」という現象を不用意に理屈として認知してしまうそういう「私の意識」は、結局のところ「現象の中に在る存在は、その現象として存在する世界が現実であることを原理的に証明できない」という堂々巡りのロジックをひたすら意識し、無駄な抵抗にため息をつく。
だから、あいもかわらず私は私の体との同一性を保ってはくれない。
どこをどう見てもこれが自分の手だの足だのであるという実感など欠片もなく、強いて言えば「痛い」という触感がつながりを想起するかと。それは単なる離人症で、さっさと精神科にでもかかった方がいいのではないかと20年来いわれ続け、いまだにそんな気もないのだが。
別にそんなことは今更どうでもいい。問題は、いつまで私は扉の窓からそわそわと教室の様子を伺い続けるのか、ということだ。
それはつまり、わたしは、幼少を過ごしたアパートの庭で、近所の友達と怪獣の玩具で泥遊びをしていた30数年前から、どうして生きてきたのか良く覚えていない、ということからの離脱なのだが、そのハードルは思いのほか高い。
「やればできる」とは聞こえがいいが、そこには常に「やれない」という可能性が同居していることは忘れられがちだ。そして多くの場合、実際にその二つは同居している。器用貧乏も、何を言おうが要は貧乏でしかない。
悩み多きことは大切だが、尾崎豊っぽい薄気味の悪い青春の悩みも含めて、そういうことは二十歳そこそこでクリアして欲しいところだ。いい大人が自分探しとかいっている姿は、馬鹿にしか見えない。
私は私の少年時代が過ぎ去ってしまったことに愕然とはするのだが、一方で鏡に映る顔にいままで感じたことのなかった加齢をここ数年で感じる中で、自分が取り返しのつかないことをしてしまったことに今更ながら気がつきつつある。気がついたところで、どうしようもないのもまた事実。あいもかわらず私の少年時代は遠くて近い物語だ。
何を以って投了とするのかはよくわからないが、少なくとも飛車角落ちの状況の中では、二歩をしてでもというところではある。しかし二歩をするには相応の意思が必要で、「やればできる」と「やれない」が同居している状況の人間には、というかすでに「やれない」しか残っていない者には盤をひっくり返すしかなく、それでもひっくり返した裏面にも将棋盤が在るとは限らない。在るかどうかは本人の資質と歩んできた歴史次第だが、盤面にテントウムシが3匹ウロウロとしている姿を見ると、どうもひっくり返す気も縮む。別にそれは悪いことではないし、それも一つの投了の仕方だが、投了前の手が悪い。投了前の手が悪いと、その日の夜の寝つきが悪い。
馬鹿と泥舟に乗って沈没するのは御免だが、王様の耳は驢馬の耳。貧すれば鈍する。
そうこうしているうちに、私を乗せた田園都市線は二子玉川を過ぎ、車窓の向こうにぼんやりと見やる薄曇りに沈む夕方の空の下あたりに、今日も不安はふわりふわりと佇む。
ボーリングをしていると、力任せに勢いよくボールを投げたために、ガーターにもかかわらずボールが弾き返されてレーンに戻ってくることがある。それでストライクでもとれればいいのだが、なぜか中途半端にスプリットになったりする。それでもピンが倒れただけで良しとするか。
私は、どうして同じような話を何度も繰り返しているのだろうか。
自己批判は、常に自己弁護の裏返しでしかない。自らを批判することは、最も簡単な逃げでしかない。と、高校生の時の日記に私は書いた。
自己批判などしない。反省はしても、後悔はしない。
自虐の歌は、朗らかに歌う。
幸も不幸もない。ただ、人生には意味がある。