ウチのベランダから見える石油コンビナートです。うちは根岸湾に面しているので、まわりにこういうコンビナートがたくさんあります。

私は、工場だとか蒸気機関車だとかいうものが大好きです。

工場にしろ蒸気機関車にしろ、その形状、機器の配列、パイプラインの取り回し、そういうものは、メカの作業効率などのみを考えてものの構成をつくったら、結果的にこうなっちゃいました、というスタイルであって、あれをデザインとはいいません。
機能美、といえばそのとおりですが、いずれにせよデザインではありません。デザインと言う言葉は「設計」という意味ですから、本来的にはデザインだと言っていいと思いますし、実際問題として工業デザインはあくまでも設計行為ですから、そういう意味ではデザインなのですが、まあ通常意味するところのデザインではありません。

プロダクトは、走る、飛ぶ、切る、音を出す、通信をする、そういったプロダクトの持つ役割があって生まれてきます。さらにそのプロダクトの機能から発生する本来的に内在する志向性、たとえば重量感、スピード感、精度感、そういうものがあります。
プロダクトデザインとは、そのプロダクトとしての機能性を失わないような技術的配慮をしながら、メカニカルな必然としての形状にプロダクトのもつ志向性をもって抽象化を行う行為だと私は考えています。


ですから、本当に優れたプロダクトデザインは、優れたエンジニアにしか出来ないと私は思っています。


工業産業の進展の中、20世紀初頭に登場したイタリア未来派が、工業プロダクトの持つ速度感や眩暈する高度感、プロダクトの放つ鋭い光線、そういった神経にビリビリとしたアタックをしてくる動きのダイナミズムを絵画や彫刻として刻もうとしたり、音の喧騒として置換してみたりしたことは、拡大解釈ですが、ある意味でプロダクトデザインの一つの姿だったのではないかと思います。
時を違わず世界を席巻したアールデコの持ったミニマルなスタイルは、あくまでもプロダクトの持つ本来的な機能性をヌーボー調の冗長性を排して表現し、量産という時代の要請を(現実的には多くの大型アールデコ製品は量産されなかったが)体現しようとしたものだったけれど、それはアールデコの持つ機能性の抽象化、たとえば蒸気機関車の重厚さとスピード感を、重さを下に配置することによる安定感と力強いマッスをの表現と、流れるような流線型のスタイリングによる疾走感とを相反することなく成り立たせることによって、奇跡的に美しいプロダクトデザインを実現していました。

あの感じ、あれこそがプロダクトデザインの本流ではないでしょうか。プロダクトデザインは、あくまでも工業製品としてのその本来性を常に内在していなけばなりません。商品としてのコンセプトも、その根底では常にそこに従属すべきです。
例えばどれほどミュージックプレーヤーという商品が多様化しようとも、その形状表現には、常に音を発生するということ、あるいは発せられる音が持つ力感が(柔らかい力感も、鋭い力感もあると思いますが)内在しなければならないと私は信じています。

そんなことに拘っていてはデザインなどやりきれないのかもしれません。あるいは、プロダクトデザインは、多様性と言う、だらしなく都合の良い言葉の前に、その機能美という原初の姿を忘れても良いといお墨付きをもらっているのかもしれません。マーケットの要請はそこにはない、と。

私は認めたくありません。工業製品のデザインとは、つねに機能性とプロダクトとしての本来的なベクトルの抽象化であるべきだと信じて疑いません。なぜならそこに現れる人の持つ美観と無意識の機能美との調和こそが、工業製品に人が愛と温もりを抱くためのエッセンスだと思うからです。