自分でも忘れていたのですが、おそらくこのブログをマメに見ている奇特な方がいるのですが、その人と知り合ったのは、実はソネットタウンというソネットのサービスでした。結構気に入っていたのですが、なくなってしまいました。

んで、そのソネットタウンがまだあったころ(もう3年以上前かも)、その奇特な人から長崎で起きた幼児殺害事件(12歳の犯人が、どこだかから幼児を突き落として殺した事件)についてコメントを求められたような気がします。
で、会社のPCを整理していたら、その時に書いたらしきものが出てきました。せっかくなんで、いまさらながらお答えします。。。

いやーネット社会はいいね、こんな恥ずかしい文章がのうのうと載せられるんだから、匿名で(一部の方にはだいぶ身元が割れているような気もしますが・・・)。

以下コピペ


・・・事件の詳細を知らないので厳密なコメントは避けますが、いちおう問われた以上は答えましょう。

子供の頃に、人を殺すことを考えたことは幾度もあります。ありますが、しかし結局人殺しはしませんでした。今でも人を殺したいと思うことはあります。本当に殺したいと真剣に思う瞬間はありますが、殺しはしません。なぜなら、その結果がどうなるかを想像するからです。殺された本人は死んでしまっているのでどうもこうもないのですが、自分はこの社会で生きていかなければならない以上、その後の身の上を考えるとなかなか人殺しはハードルが高いものがあります。


1.人を殺すということ

人を殺すことは、いけないことなのでしょうか。
原則的には、そんなことはないでしょう。人を殺してはいけないなどという永遠不滅の法則などありはしません。人を殺してはいけないというのは、そういうイデオロギーでしかありません。だから戦争状態にある時には、昨日まで普通のサラリーマンだった人に国家が人殺しを強要します。人を殺してはいけないという通常のイデオロギーとは別のイデオロギーに則って行動することが求められているからです。殺人をしてはいけないことが永遠不滅の法則ならば、そんなイデオロギーによる殺人の意味づけの変更などありえません。

さて、ではなぜそんなイデオロギーがあるのでしょうか。たぶん理由は簡単で、共同社会を運営するためには、構成員間での無秩序な殺戮を認めることは出来ないからです。無秩序な殺戮を認めては、共同体が共同体として成り立ちません。あたりまえです。ただ、ここで重要なポイントが2つあるかと思います。
ひとつは、殺人に対する人工的な規制を設けないと、人はきっかけさえあれば人殺しをするということです。
もう一つは、このイデオロギーで設けられる規制は「無秩序に」人を殺してはいけないということで、「ある一定の秩序」があれば人を殺しても良い、という考えが裏に隠れていることです。先述のとおり、それが他の共同体との戦争であったり、罪人に対する死刑です。

たとえば、昔は復讐というものがきちんとした制度として存在しました。まだ人間が原始的で小さな共同体を作り生活していた頃は、家族が殺されたり、部族の構成員が殺されたりした場合には、その殺した相手に対して復讐をきちんとしました。というよりも、復讐はたぶん義務でした。それは家族という共同体の長の威厳や、共同体の強い自立性を外部に対して見せつけ、なめられないための非常に大切な行為だったろうと想像します。それは言い方を変えれば、無闇に殺人を行なえば確実にしっぺ返しを食らうということです。そのことによって、お互いの緊張関係が保たれ、共同体間でのバランスをとっていたわけです。

もう少し近代になって社会が複雑になりだすと、勝手にてんでばらばらで殺し合いをやっていては社会としての秩序が保ちにくくなってきます。そこで登場するのが、あだ討ち、西洋で言えば決闘です。これは、国家が個人に対して自らの威厳などを守らせるために、合法的に殺人を行なう機会を与えるという行為でした。そして現代は、この合法的な殺人行為は罪人に対する死刑という制度でしか認められません。つまり、個人が合法的に殺人を行なう機会を社会システムが徐々に個人から取り上げてきたのが、社会が近代化していく歴史の大きな流れの一つでした。道徳という考え方は、その中身が時代によって変わります。道徳は社会教育によって獲得されるイデオロギーであり、例えば人殺しに伴う生理的な嫌悪感などとは違う次元のものです。

というのは私の想像なので、さて話を元に戻します。

あらためて、人を殺すことはいけないことなのでしょうか。ここまでで書いてきたとおり、ある条件下ではむしろ推奨されることであり、原理的に殺人を禁止する理由などなにもありません。善悪の判断基準は、その時代や社会背景によっていかようにも変わるイデオロギーでしかありません。だからおしなべて言えば、人殺しはしても構わない行為です。しかし、それを放置しては社会が成り立ちません。だから、特別な事情が無い限り殺人は規制されます。上で述べたとおり、それは原始社会でも現代でも変わりません。そしてそれは学校で机に向かって教わるのでもなく、親が子供のイタズラをしかるように明快に教えられるのでもなく、共同体の暗黙のルールとして教育されていくものであり、それゆえに疑いようもないほどあたりまえで、強いルールでした。

しかし、最近はなぜ人を殺してはいけないのかという話題や、あるいはその理由をきちんと大人が子供に説明できなくてはならない、それが大人というものの役目だ、という類の話をよく見かけます。
別にそれを否定はしません。なぜ人を殺してはいけないのか、十分に語り合えばよいでしょう。あるいは、殺人をしてはいけない理由をきちんと大人が子供に説明できなくてはならない、それが大人というものの役目だと思うこともかまいません。

ただ一つ言えることは、そんなことを明確な課題として取り上げなくてはならないような社会は、すくなくとも従来の意味での社会としては、既に終わっているということです。



我々の生きているこの社会が、すでに従来の意味での社会としては終わってしまっているというその前提を抜きにして話を進めても、対症療法のような表面的な話が流れていくだけです。わかったような顔で論評を語る評論家などの方々には、その大前提が欠けている様に思えてなりません。


2.なぜ彼は人を殺したのか

新聞やニュースを全然見ていなくて、すっかり浦島状態の私は、細かい事実関係を知りません。という前提で話を進めます。
さて、なぜ彼は人を殺したのでしょうか。まず私の答えを先に提示しましょう。答えは「わかりません」です。ふざけてはいません。わかりません。わかりようもない、と言った方が正確かもしれません。この手の残虐な少年犯罪の話は、酒鬼薔薇聖徒の事件以来増えました。目立っているだけかもしれませんが・・・。
今回の事件の少年は、自分の犯した罪に対してかなり後悔をしている様子があるようなので、一概に酒鬼薔薇をはじめとした事件と同一に語ることは無理がありますが、それにしても、あの事件以来、一望して目に付く言葉があります。

「動機不明」あるいは「動機不在」

でも、動機不明はまだしも、動機不在なんていうことがあるのでしょうか?
ある訳がありません。

たとえば、青年の暴行事件が急激に増加していると言う話はよくありますが、彼らが暴行するには当然理由があります。仮にただキレただけだとしても、そこにはキレたという動機にもならないような動機がきちんとあります。
しかし、どうでも良いような些細なことでいちいちキレるその精神構造は不可解であり、よくわかりません。我慢したり、周囲に対する想像力がないからだという話もありますし、その原因は社会から人間関係が希薄になり、他人に対する想像力が育たなくなるからだ、という原因も耳にします。しかしその一方で大半の青年はまともに育っており、キレて暴行する彼らだけが特別な環境で育ったということもないでしょう。そうすると、彼らにとってキレるとは何なのかよくわかりません。よくわからないということは、そもそも本当にキレたことが殺した原因なのかどうかもよくわかりません。動機不明とは、こういうことでしょう。
殺伐とした社会や、人間関係の希薄な現在の共同体の話など、耳にタコが出来るほど聞いてきた工夫も何も無いつまらない話や、あるいはもってまわったような精神分析の鑑定によって、彼らの殺人の動機を探り当てようと、皆やっきになって論を繰り広げます。しかし、本当にそれらは殺人の動機に迫っていけているのでしょうか。私にはそうは思えません。成績優秀な子がなぜ?おとなしそうな子がなぜ?という論調が的外れな原因も、ここにあります。

成績優秀な子がなぜ?おとなしそうな子がなぜ?という疑問や、殺伐とした社会や、人間関係の希薄な現在の共同体というモチーフも、そして性的倒錯やらサディズム傾向やらの精神分析の鑑定も、すべて「普通」の人間である私たちの言葉によって語られます。「普通ではない」人間の、その本人ですら言語化できないような奥深いところに潜む何者かを、通常ではない経験や想像にとりつかれたこともない「普通」の人間である私たちの言葉にまったくの想像で翻訳をするわけです。
簡単に言えば、殺した彼らが、もしも私たちの知らない未知の思考を巡らせていたとしたらどうでしょうか、ということです。彼らが我々の住むこの世界に存在しつつも、その世界観を完全に外れてしまったところに精神構造を置こうとする存在だったとしたらどうでしょうか、ということです。。
一番最初に、「私も人を殺したいと本気で思うことはあるが、なかなかハードルが高くて人なんて殺せない」という話をしました。しかしその高いハードルが、ハードルにすらならないような存在が彼らっだとしたら、もはや我々が投げかける言葉などそこにはありはしません。根本的に生きている世界が違うのです。

多くの場合、その前提づけは問題解決への道を放棄するものとして疎まれることでしょう。当然です。わからないものはわからないと言ってしまうことは、問題解決放棄と見られることが「普通」です。しかし、状況は明らかに「普通ではない」のです。
わからないものはわからないと言ってしまうことが、普通の考えで言えば問題解決放棄でしかないとしても、それが「わかりようもない」という前提が存在する可能性を無視していいという理屈にはまったくなりません。

「理解不能」もっと言えば「解決不能」

その前提をまじめに受け止めなければならないかもしれないという、とても恐ろしい可能性を捨ててしまうことこそ、私には問題解決放棄に思えてなりません。「普通ではない」状況を、「普通」の側の言葉で考えることの無力さを一度認めなければ、すべてが上滑りな論になってしまいます。多くのマスコミの論評が表面的で深みが無い原因は、すべてここにあると私は感じています。



・・・と言うところで終わっていました。ほんとうはもう少し続きがあるのですが、途中で途絶えているので。

長年の役目を終えた気分ですが、あんまりいい加減な話ですみません。まあヒマなときにチラッと考えたことを書いただけだったと思うので許してください。

では。